Jeremy のことが知りたくて ~ ジェレミー・ブレット(Jeremy Brett)を愛するかたへ

英グラナダ・テレビでシャーロック・ホームズを演じた俳優の人生を言祝いで

プロモーション・ツアーでアメリカをまわっていた時に収録されたラジオ番組から、Joanのことを話している箇所を中心にご紹介してきました。このあと、ジェレミーは当時の世界情勢にふれ、最後に自分で5曲目を紹介し、別れを告げます。

これを最初にきいたとき、ラジオ番組で俳優が世界情勢にふれる、というのは日本ではあまり考えられないので、少し驚きました。そのあといろいろなインタビューや記事を読んで、ジェレミーが世界の政治情勢や世界平和を含めて、いろいろなことに興味を持っている、視野の広い人であることがわかってきました。たとえば以前ご紹介した「Scrawl」のインタビューでも世界情勢にふれています。

今回、「ジェレミーの悲しみと、あたたかさ」というタイトルで、2つのインタビューを紹介してきました。ジェレミーは悲しみを経験することで、より強くよりあたたかく生きた人だと思います。その一方で、ジェレミーはとても多面的な人で、ある面だけを強調しすぎると他の面が目に入らなくなってもったいない、と感じたりもしています。たとえばとても子供っぽくてかわいらしい面もあって、ジェレミーのcuddlyなところが好きだ、という人がいました。この言葉もはじめて知ったのですが、「抱きしめたくなるような」という意味だそうです。ジェレミーのことを知れば知るほどその魅力を感じます。

でも日本にたくさんの悲しみが生まれた今、ジェレミーのある面をご紹介したいという気持ちが生まれて、何回かにわたって書きました。もう少し続けるつもりでしたが、3月くらいから私の中に生まれたさびしさが、少しずつ育ってきているようです。数日前から、ここをお休みすることを考えていました。無理をしないようにして、しばらく書く事をやめます。定期的に見に来てくださる方を、お一人知っています。また、mixiで励ましてくださった方がお一人いらっしゃいました。コメントを下さった方、拍手を下さった方、以前メールでお話ししたことのある方にもご心配をおかけしないように、お休みのご挨拶を書きました。そんなに長くお休みすることなく、また書きたくなるかもしれません。それではその時まで。

RM
フォーレのレクイエムから「楽園にて」という美しい曲を、ジェレミーが今は亡きお母様とJoanに捧げたところを前回ご紹介しました。このラジオインタビュー「Desert Island Discs (1991)」 は、ウェブサイト「Jeremy Brett Information」で聴くことができます。くわしくは前回の記事をご覧下さい

この曲が終わった後、司会者がジェレミーにこう言います。最初は、レクイエムの歌詞からの引用です。

(「天使が楽園であなたを迎え入れてくれますように。」ジェレミー、今、あなたのお子さんたちの写真をみせていただいていますが、これからお子さん達にお会いになるのですよね。)

そうです。これからボストンへ行って、James(ジェームズ), Deanna(ディアナ)、Christine(クリスティーン)にも会うのです。僕の可愛い孫達です。そしてEsther(エスター)にも会います。エスターは今でも自転車に乗っているんですよ、家の中でね。彼女は90歳、義理の母です。だからとても楽しくすごせると思います。とても幸せにすごせるでしょう。来週末です。


ジェレミーがみせた写真には、お孫さん達もうつっていたのでしょうか。ジェレミーが3人の孫の名前をあげるとき、その声はいとしげであると同時に、なにかあふれてくる感情をおさえているように、私にはきこえます。お母様とJoanに捧げた曲が終わったあと、Joanが遺した子供達の写真をみて、Joanがこの世にいた時のことを思い出していたのではないでしょうか。その後、義理のお母様のことを話すところは、とてもやさしい口調です。


それからクリーブランドとシカゴへ行きます。今回僕はとても素晴らしい旅行をしています。これはもちろん、公共放送を宣伝するための旅です。(ちょっと質問してもいいですか?)

そして司会者は、アメリカ人がイギリスにとてもあこがれているのに驚いていますか、それとも当然だと思っていますか?とたずねています。これに対して、ジェレミーは多分とてもウィットに富んだ答えをして、司会者は大笑いに笑っているのですが、ここが私にはよく理解できません。アトランタへ行ったときに、ジョージア出身の人に話をききたかったけれども、たずねた一人はエチオピア出身、一人はイギリスのウェールズ出身だった、ジョージア出身の人に会うのはあきらめなければならないのか、と思った、ということのようです。出身国の違いはもちろんあるけれども、今は皆が出身をこえてまざりあって生活していて、それは好ましいことだ、という気持ちからの答えだったと想像しています。実際ジェレミーはアメリカ人のJoanと結婚して、一時は生活の拠点をアメリカにうつしていますから。そしてジェレミーはヨーロッパの多くの国や、南アメリカやオーストラリアにも行っていますから。

この後ジェレミーは話をもとにもどします。先ほど「これは公共放送のための旅です」と話し始めた時には、これは Joanのための旅であること、そしてこれから話すことへと続けるつもりでいたのでしょう。


僕が伝えたいと思っている本当に大切なことは、これから話すことです。

人生で大切な人を失ったとき、たやすくすぐに回復できるとは決して思わないでください。
あなたが思っているよりもずっと多くの時間を、自分に与えてください。
2年3年たって急に涙があふれてきても、決して驚かないでください。
男の人でも涙が頬をつたって流れるのです。
思いもよらない場所で、たとえばエレベーターの中や運転している車の中で突然涙があふれるのです。
あなたが思っているよりもずっと時間がかかることを、どうぞ覚えていてください。


ジェレミーは少しゆっくりした口調で、文と文の間で少し間をおきながら話しています。悲しみを経験した人に、このことをどうしても伝えたかったのだと思います。きいている人にも、そして自分自身にも話しかけるような口調です。男でも泣くのです、と言いながら、ジェレミーは静かな声で、以前の自分を思い出して話しているように思えます。ここをきくとき、私はいつもジェレミーが悲しみとともに生きてきたことを思い、愛する人を失ったひとを少しでもなぐさめたいという、こころの底からの気持ちを感じます。

RM
1991年にアメリカで収録されたラジオ番組 Desert Island Discsのご紹介を続けます。この番組では、無人島に行く時に持っていく5枚のレコードの曲をかけながら、ゲストが司会者と話をします。ジェレミーは前回の部分では、最後にJoanと踊ったときのことを話して、そしてJoanが遺した二人の子供の名前をあげます。その次からご紹介します。

(司会者が「それではフォーレのレクイエムからイン・パラディスム(In Paradisum; 楽園にて)を聴きましょうか... 。」)そうですね、僕がお話ししましょう。ロンドンで「Man of Action」という番組に出演した時、多分1977年かもう少し前だったかもしれませんが、そのときにこの曲を交通事故で亡くなった母に捧げました。ですから... 今日はこの曲を二人に捧げます。

ジェレミーのお母様は1959年に亡くなりました。「ですから(So...)」という声が小さく震え、ジェレミーは長い沈黙をはさんで、二人にこの曲を捧げる、と言っています。フォーレが作曲したレクイエム(鎮魂歌)から、美しいオルガンとソプラノの曲が流れます。

長いあいだ聴くことができなかったこの番組の音声が、昨日Jeremy Brett Informationにアップロードされました。以前のウェブサイト、The Jeremy Brett Archiveにこの音声があった時は、音楽はすべて省かれていたのですが、今回はこのフォーレのレクイエムのイン・パラディスムだけは全曲含まれています。この曲はジェレミーにとっておそらく心の深いところから来る思い出をともなった大切な曲なのでしょう。ですからこの曲も含めてこのインタビューをきくことができて、ジェレミーの想いをより深く感じることができるように思いました。ジェレミーはこの曲に関しては演奏者や歌手に言及していませんが、5曲の内の3曲では歌っている歌手を特定して話しています。ですからこの番組でかかった5枚のレコードは、録音自体も実際にジェレミーがよくきいていたものなのではないかと思います。

場所はまだ変わる可能性がありますが、今現在はここ(http://jeremybrett.info/archive.html)にあります。右の段の下から2番目、「Desert Island Discs」と書かれた箇所のListenを押すと音声が流れます。また、このページ(http://jeremybrett.info/media.html)からは右クリックでダウンロードができます。但し書きとして、英米の法律で認められる公正な利用(フェアユース)によって、著作権を持たない著作物をこのウェブサイトで使用するが、読者はこれを営利目的では使用しないように、と書かれていますので、どうぞ守ってください。

Joanの話はこのファイルの19分くらいから、フォーレのレクイエムのイン・パラディスムはおよそ24分30秒後からはじまります。

今日は短いですがここまでで、次回はこの曲が終わったところからご紹介いたします。

RM
ラジオ番組 Desert Island Discsで、ジェレミーが最愛の奥様Joanの話をしている部分をご紹介しています。今回は、ホームズを演じるようになってからの話です。

そしてそれから重大な転機が訪れたのです。僕はシャーロックを演じることになりました。それはイギリスの北部のホテルにずっと泊まりっきりになることを意味していました。そして僕たちに残された時間が少ないことを、その時は知りませんでした。1985年7月4日に彼女の命が終わることをその時は知らなかったのです。僕たちは庭をつくろうとしていました。子供を授かるのには遅かったので、すばらしい庭をつくろうとしていたのです。(どこにですか?)まだ決めていませんでした。庭作りに良い気候の場所をさがしていたのです。僕はLos Angeles(ロサンジェルス)を考えていました。僕たちはもちろんWisconsin(ウィスコンシン)はどうだろうかと話していました。Warwickshire(ウォリクシャー)も考えていました。すごく大きな庭園にしようとしていたのです。

ジェレミーはホームズの撮影期間はマンチェスターのミッドランド・ホテルにずっと泊まることになりました。ですからJoanに会う機会もそれまでよりもはるかに限られていたのでしょう。

庭園をつくることを考えていた場所のうち、ロサンジェルスはジェレミーがアメリカを拠点として仕事していたころの家があった場所、ウィスコンシンはJoanの生まれた場所、ウォリクシャーはジェレミーが生まれたところです。大きな庭園、と言いながら楽しそうに笑っています。


そして突然、彼女は僕の元から奪い去られたのです。(何がおきたのですか?)それは...ガンでした。とても急でした。ひどい衝撃で、そして僕は二人で最後に踊ったときのことをよく覚えています。ロックフェラーセンターの最上階のRainbow Roomでした。美しい桜の季節で、僕はブロードウェイでの "Aren't We All?" の芝居で、いわば美しい桜のような成功の中にいました。彼女は銀色の服を着て、たとえようもなく美しく、繊細ではかなげでした。そして...そこで最後のダンスを踊って...そして僕は彼女を失ったのでした。

でも僕には彼女が遺してくれたすばらしい二人の子供がいます。Caleb(ケイレブ)とRebekah(レベッカ)、そして最初の結婚の時に生まれた息子がいます。ですから泣きません。でも彼女の生命の輝きは戻ってこないのです。


Joanがガンのためにとても心配な状態であることをジェレミーが知ったのは、「最後の事件」のロケ地のスイスに滞在していたときだったそうです。(The Morning Call, Nov 10, 1991)撮影終了のお別れパーティのために風船をふくらませながら、ジェレミーはJoanのことを心配していた、という記述がBending the Willowにあります。

そしてJoanが亡くなったのは "Aren't We All?" の上演中でした。ジェレミーは "Aren't We All?"を最後までつとめて、アメリカをはなれ、ロンドンにもどりました。Joanが亡くなった後もこの喜劇に出続けたジェレミーは、どんな気持ちだったろうと思います。どうやって演じたか何も覚えていない、と言っているのを読んだ記憶があります。からだとこころと魂が分離したような状態だったのではないかと思って、胸が痛みます。

CalebとRebekahはJoanの以前の結婚で生まれた子供達ですが、ジェレミーは自分の子供としてとても愛していました。子供が3人、といつも言っています。

Joanと踊った最後の時のことを話すあいだ、ジェレミーはその時を思い出すように悲しげで、時に途切れがちに時に少しささやくような声になります。そしてJoanが遺した二人のことを話しはじめるとき、声が少しふるえています。

泣きません( No tears. 涙はなしです)、とジェレミーは言っていますが、その後これからご紹介するところでは、悲しむために十分な時間を自分に与えてください、急に涙が出ても驚かないでください、と、大切な人を亡くした人にむかって話しかけています。そしてこの収録が終わったあと、ジェレミーはJoanを失った悲しみにおそわれて、悲嘆の内にスタジオを後にしたことを知っています。

RM


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前回の記事に拍手を下さった方、どうもありがとうございました。こころがほんわりとあたたかくなりました。

何かつながりを感じたくて、たまらなくなったのです。それで拍手ポタンをつけてみたのでした。やさしく励ましていただいた気持ちです。ありがとうございました。
ラジオ番組 Desert Island Discsから、奥様Joanの話をしている部分をご紹介する2回目です。司会者にJoanの職業をきかれて、「彼女は『Mystery!』をつくったんです。」とうれしそうに答えて、司会者がびっくりするところまで前回はご紹介しました。

彼女はウィスコンシン生まれで(北米先住民の)チェロキー族の血をひいていて、直感がとても鋭く、そしてもちろんとても美しいのです。妻はWGBH(ボストンにある、公共放送サービスPBSに属する放送局の一つ)で働いて、「Mystery!」、「Classic Theatre」、「Piccadilly Circus」をプロデューサーとしてつくり、「Masterpiece Theatre」のプロデューサーを18年間つとめました。アメリカとイギリスの間に美しく繊細な橋をかけたのです。妻がなしとげたことは、多分彼女でなければできなかったでしょう。(司会者:「美しく繊細で、そして輝くような橋をかけたのですね。」)そのとおりです。彼女のことをとても誇りに思っているので、いくらでも自慢ができます。私たちはとても美しい家に住んでいました。彼女はたくさんの人に電話をして会って、John MortimerやJohn Hawkesworth と知り合いました。そのうちに彼らは電話で彼女のアドバイスを仰がないことには、ほとんど何もできなくなったんですよ。(司会者が笑う。)Jeremy Isaacsも、それからテレビ局のトップも皆、彼女に心酔していました。「今夜外で食事をしない?」と僕が言うと彼女は「ごめんなさい。今から手紙を2通出さなくてはならないの。」お偉方2人のためにスピーチ原稿を書いて届けたのです。でも彼女はdyslexia(難読症)だったんですよ!まあとにかく、僕たちは遅いディナーをとりました。そして僕らは結婚することになったのです。(「アメリカに住んだのですか、それともイギリスですか?」)両方です!

Joanの写真はあまり多くを見ることができないのですが、Jeremy Brett Informationに数枚あります。
http://www.jeremybrett.info/jb_joan.html
この前ご紹介した、ウェブ上でJoanに花を手向けることができるサイトにある写真も好きです。
http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GRid=6839525

Joanは直感にすぐれていた、というのはジェレミーと共通するところのように感じます。また、彼女を紹介する新聞記事で、以前は女優だったと書かれているものがありました。下で紹介するPBSのサイトでも、JoanのWGBHでの最初の仕事はラジオドラマのプロジェクトで、そのディレクターもつとめ、演じもした、と書いてあります。彼女が仕事の面でもジェレミーの良き理解者であったのは、番組の作り手としての豊富な経験と、女優としての経験と、その両方があったからなのではないでしょうか。

「Mystery!」はアメリカでホームズを放送した番組で、Joanが初代のプロデューサーです。「Classic Theatre」は前回ご紹介したように二人の出会いをもたらした番組、「Piccadilly Circus」もまたJoanがプロデューサーとして作った1976年の番組で、イギリスのコメディやドラマなどを紹介するものでした。そしてジェレミーはこの番組のホストをつとめました。おそらくこの番組の制作を通して二人はお互いをよく知り、愛し合うようになって結婚することになったのでしょう。結婚の年に関しては先日もふれましたが、1976年、1977年、1978年と、記事や本やインタビューによって違っています。(PBSのウェブサイトの、Joanの紹介文では1977年となっています。これが正式な結婚の年だと私は思っています。
http://www.pbs.org/wgbh/masterpiece/about/hosts.html

これからご紹介するのはどちらも「Piccadilly Circus」の宣伝用写真です。同じ服装と帽子ですから、同じときに撮られたものでしょう。1枚目は笑顔をみていると幸せになりますし、帽子を持つ手の指がとてもきれいです。2枚目は少し上を仰ぎ見ている表情が素敵です。どこからもらってきたか忘れてしまったので、もとのサイトの場所を書くことができませんが、多分 For fans of Jeremy Brett からで、1枚目は同じものがAmazon.comにもあります。ただし今は購入はできません。
http://www.amazon.com/dp/B000RHBQNG/
2枚の写真はクリックで大きくなります。
PiccadillyCircus4.jpg
Piccadilly Circus3

「Masterpiece Theatre」は1971年にはじまった有名な長寿番組で、現在も「Masterpiece」の名で放送されています。PBSのウェブサイトでは現在の番組の紹介、この番組で放映されたドラマのリストや歴代のホストとプロデューサーの紹介などを読むことができます。
http://www.pbs.org/wgbh/masterpiece/index.html
Joanは1973年から亡くなるまで、この番組のエグゼクティブ・プロデューサーをつとめ、その間にこの番組は多くの賞を受賞しました。ジェレミーが主演したThe Good Soldier (1981) は、アメリカでは1982年に「Masterpiece Theatre」で放映されました。

こうしてJoanの業績を見ていくと、あらためて、彼女はなんと傑出した才能と感覚を持った名プロデューサーだったのだろう、と思います。

Joanが会っていた人として名前が出ている3人は、イギリスの有名な脚本家や劇作家やプロデューサーで、特にJohn Hawkesworthはグラナダ版ホームズのテレビ用構成を担当し、さらに「最後の事件」などの脚本も担当しています。Joanはイギリスのテレビ関係者を以前から多く知っていて、彼らの信頼を勝ち得ていたのですね。ジェレミーは本当に誇らしげに話しています。

dyslexia(難読症、失読症)については、ジェレミーも同じdyslexiaだったことをDavid Stuart DaviesがDancing in the Moonlightに書いています。ジェレミーが小さかったころ、文字を読むのが困難だったジェレミーのために、お母様が本を読んであげたそうです。私はここを読むと、お母様の腕に軽く寄りかかりながら本を一緒に読む小さいジェレミーをいつも想像します。この本のこの部分はりえさんがブログで翻訳して紹介してくださっています

この後ジェレミーは、ホームズを演じることになった時のことを話しています。次回ご紹介します。

RM
ラジオ番組 Desert Island Discsは、無人島に行くことになったら持っていくであろう音楽をゲストが5曲選んで、それを流しながら番組のホストと話をするというものです。1991年にジェレミーがアメリカ・ツアーに行ったときにアメリカで収録されたものの録音が残っていて、以前こちらでその一部、ハムレットを演じたときのことと、南アメリカへのヒッチハイクの旅について話している部分をご紹介しました。今日は奥様Joanの話をしている部分を一部抜粋してご紹介します。

はじめから年代を追って話をしてきて、南アメリカへの旅と、Alec Guinessと共演した芝居の話をします。「その次はどんなことが起きたんですか?」と司会者が問うのに答えて、

それから「Design for Living」の芝居に出ました。その時は知らなかったのですが、最愛の人が僕をみていました。彼女はステージにいる僕をみたのです。一度彼女にたずねたことがありました... 。ちなみに彼女の名前はJoan(ジョーン)といいます。Joanie(ジョーニー)は...(司会者が「彼女は普通に観客として劇を観に来たのですか?」とたずねるのに対して)芝居に出ていた僕を観に来たのです。彼女が言うには「あなたのせりふを聴いていたんじゃないのよ。あなたの足の動かし方をみていたの。」それをきいて、顔が真っ赤になりました。(司会者が笑う。)

他の機会には、ジェレミーは「Joanは僕が片方の足からもう片方へ、重心を移すやりかたが好きだった」と言っています(引用されているのですが、出典はわかりません)。Joanは多分、ジェレミーの独特な身のこなしが好きだったのですね。


1975年には、「The Rivals」の撮影中でした。そしてそのとき僕たちは出会ったのです!彼女がそのお膳立てをしたのじゃないかと思うのです。というのは僕以外にも主要な出演者はいたのに僕が選ばれたのですから。カメラの前ではじめて出会い、話しているところを4分間収録するはずが、2時間半カメラの前で話し続けました。そして1978年に結婚した時、新郎の付添人をつとめてくれた友人が、結婚のプレゼントとしてカットされた部分を贈ってくれました。僕らが暗い中でその映像をみたのは幸いでした。だって顔が赤くなっていましたからね!

二人が出会ったのは、Joanがプロデューサーだった番組「Classic Theatre」で、ジェレミーが出演している「The Rivals」を放送するのに先立って、アメリカの視聴者にこの作品とその脚本家Sheridanの紹介をするためにつくられた番組(Classic Theatre Preview, 1975年11月放映)の収録の時でした(新聞のテレビ欄より)。ちなみに結婚の年については、別のインタビュー(Evening Times, 1986年8月)ではジェレミーは1976年と言っていますし、The New York TimesのJoanの死亡記事や、Boston GlobeのJoanを紹介する記事では1977年、The GuardianやThe New York Timesのジェレミーの死亡記事では1978年となっています。ウェブサイト Jeremy Brett InformationをつくっているRebeccaは頭を抱えていて、ロンドンのとある女性が後で困ると知っていたら、ジェレミーももっとはっきりさせてくれたでしょうに、とぼやいていました。私は、二人が人生のパートナーとして生きることを決めたのが1976年、アメリカで結婚披露のパーティをひらいたのが1978年なのではないかと思っています。そしてDancing in the Moonlightにも記述がある1977年11月22日というのは、公式な結婚届けの日にちではないでしょうか(アメリカにもイギリスにも戸籍制度はないそうです)。


僕たちは誕生日が同じなんです。(司会者の「いつですか?」の問いに)11月3日です。(「おめでとうございます」)はい、もうすぐです。義理の母とすごす予定にしていて、楽しみにしています。僕たちはとても愛しあっていました。(どんな仕事をしていたのですか?)彼女は「Mystery!」をつくったんです。(え、本当ですか!)

Joanとジェレミーは同じ誕生日でした。誕生年に関しては、Joanが3歳2歳年上だと書いているウェブサイトもあるようですが(Brettish Empire)、今のところはっきりとはわからない、と多くの人が考えているようです。というのは死亡記事でも、Joanは本人の意思で年齢を明らかにしていなかった、とされていますし、Massachusettsにあるお墓の墓石にも生年は書かれていないのです。(ウェブ上でお花を捧げることができるサイトに、お墓の写真があります。http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GRid=6839525)ただ、私もJoanはジェレミーとほぼ同じ年齢か少し上だと想像しています。(追記:genealogy(系譜学)の専門家によると、データベースによればJoanは5歳年上だそうです。)

「Mystery!」はアメリカの公共放送サービス(PBS)の番組です。ジェレミーのホームズはアメリカではこの番組で放送されました。

Joanとの出会いを話すところでは、はじめはこころなしか、声が悲しげにきこえますが、その後はとても楽しそうに話しています。「彼女は『Mystery!』をつくったんです。」と言うところは、本当に誇らしげです。この音声は以前のThe Jeremy Brett Archiveにはあったのですが、Jeremy Brett Informationにはまだアップロードされていません。アップロードされたら、またお知らせします。

このあと、Joanがどんな女性だったかをジェレミーが話しています。続きは次回ご紹介します。

RM
1991年10月にアメリカの新聞に載ったインタビューから抜粋してご紹介する2回目です。前回の部分の後で、ホームズがコカインのボトルと注射器を捨てるシーンについて話しています。その次が、ジェレミーの最愛の奥様、Joanのことにふれている部分です。

ダラスに来た理由ははっきりしている、とブレット氏は言う。「ここにいるのは、PBS(公共放送サービス)のためです。私の妻はPBSのために生涯をささげました。私は妻の思い出のために、ここにいるのです。妻がPBSの番組、『Mystery!』をつくったプロデューサーだったのはご存知でしょう。」その時ジェレミーの目は、窓の外を飛翔するものをとらえた。「あそこに鷹がいる。」ジェレミーは空を旋回する鳥をみつめた。「妻と私は誕生日が同じ日でした。妻は『Masterpiece Theater』(イギリスのテレビ番組をアメリカで紹介する番組)のエグゼクティブ・プロデューサーも15年間つとめました。彼女は私たちの2つの国の間に、繊細な橋をかけたのです。彼女の魂に祝福がありますように。あそこに飛んでいるあの鳥は彼女です。」

ジェレミーはJoanの魂が近くにいることを、自然の中にいることを感じていたのですね。こういう感覚はキリスト教的というよりも東洋的に思えて、私たち東洋人はジェレミーの気持ちをとても身近に感じられるような気がします。ジェレミーは瞑想の時に仏像を近くに置いていたそうなので、東洋の感じ方にもひかれていたのかもしれません。

特にこの時はアメリカにいたこともあって、Joanが懐かしくて、彼女を失ったことを思って悲しかったのではないかと思います。この同じアメリカツアーの時に収録されたラジオ番組 Desert Island Discsでは、Joanのことを本当に誇らしげに愛しげに話しています。その後彼女の死にふれ、母と彼女にフォーレのレクイエムを捧げる、と言うときのジェレミーの声が忘れられません。

Joanの魂を鷹のなかに感じた、ということに少し驚く方もいらっしゃるかもしれません。鷹は女性的ではないようなイメージがありますから。でもJoanは美しいと同時に、つよい意志を持った有能な女性で、ジェレミーは彼女のことをbeautiful and gutsy (美しくて精気にあふれている)と言っています。ですから美しく堂々と空を舞う鷹に彼女をかさねるのも、自然だと感じます。

次回は上でふれたラジオ番組 Desert Island Discs の、Joanのことを話している部分について書こうと思います。

最後にジェレミーがサインして、メッセージを添えている写真をご紹介します。写真はクリックで大きくなります。
JBSpring.jpg

Spring is in the air! Joy to us all. J.B.
空気に春が感じられますね!僕たちみんなを幸せな気持ちにしてくれますように。J.B.


ジェレミーらしい言葉だと思います。今まだ、とても春の訪れを感じるどころではなく生活していらっしゃる方々の元にも、遠くない時期に春が静かにやってきますように。

RM
1991年10月24日に、アメリカ・ダラスの新聞にのったアメリカでのインタビュー記事からの抜粋です。これは昨年りえさんのブログのコメント欄でもご紹介したことがありますが、とてもこころに残っているので、少し書き直して再度ご紹介します。今日はその一回目です。

「1987年にシカゴの11歳の少女から届いた手紙のことが忘れられません。俳優である私の友人から、私が出演している劇場に電話がありました。電話番号を言って、『明日この番号に電話してくれるかい?小さなルイーズ・アンが君とベット・ミドラーの大ファンなんだ。』でも私はなぜかわからないけど、すぐにその番号へ電話をかけたのです。芝居の幕があがる30分前でした。女の子は眠っていましたが、彼女の叔母さんと話ができて、私から電話があったことを彼女に伝えてくれると言いました。私は、私のいっぱいの愛を伝えました。彼女は目をさまして私からの言付けをきいて、永遠の眠りにつきました。白血病でした。その後、亡くなる3週間前に私に書いてくれた、とても優しい手紙が届きました。彼女は私のことを案じて気にかけてくれていたのです。テレビ撮影のライトはあぶなくないか、私が気持ちよく健康にすごしているか気にかけてくれていました。彼女が亡くなった後、彼女の友達と手紙をかわしましたが、その友達も15歳の時に交通事故で亡くなってしまいました。だから今、二人は私を守ってくれる天使なのです。」ブレット氏のこころの内を映し出して、彼の瞳は光っていた。

1987年とありますがこの年には舞台出演はないと思うので、多分「The Secret of Sherlock Holmes」(1988-9)だと思います。

ジェレミーは自分が直観的だ、ということを何度も言っています。明日電話をしてくれ、と言われて、なぜかその日に電話をしたのも、今日でなければ、というジェレミーの直観だったように思います。それでルイーズはジェレミーの言葉をきくことができました。

ジェレミーはそのようにして、自分を必要とする人に自然に寄り添うことができる人だったと感じます。そして自分を思ってくれた人のことを、ずっと忘れなかったのだと思います。

追記;ジェレミーはとてもいろいろな面を持った人だったと感じています(もちろん、人は皆そうだ、という言い方もできるでしょうが。)ここではその時々で、私が感じているところをお話しているのだと理解してくださるとうれしいです。最近、ここを読んでくださる方がいらっしゃるとしたら、どのように受け取っていらっしゃるのだろう、と思うことが多いのです。すごく偏ったことを書いている、ファンタジーを書いている、と受け取っていらっしゃらないだろうか、と思うのです。通して読んでいただければわかってくださると思うのですが、私はジェレミーが完璧な人間だったとも、天使のような人だったとも思っていません。多くの人を愛し多くの人に愛され、人を悲しませたことがあっても理解されて互いに友情を持ち続けて、人生における幸せな時も悲しみの時も十分に生きた人だと思っています。

RM
私がジェレミーにひかれる理由はたくさんあります。内からわきでるこころのあたたかさを持っていたこと、自分が悲しみを経験したことで、それまでにまして悲しんでいるひとのこころに寄り添ったこと。これは、ジェレミーにひかれる理由の中のとても大きな部分です。ジェレミーのことを話しているうちで、"Jeremy was beautiful inside and out." という表現にふれることがあります。ジェレミーは本当に美しい容姿を持っていたけれども、私たちがここまでジェレミーにひかれるのは、内側の美しさ、あたたかさを感じるからだと思います。

こういう時だから、ジェレミーのそのあたたかさにふれたくなります。少しずつ、ジェレミーのインタビューや、他の人がジェレミーを語る言葉をご紹介していこうと思います。今日はその前に、思っていることを書いてみます。

私は今の自分が不思議になることがあります。そしてここ2年の自分の変化のおおもとは、ジェレミーでした。ジェレミーのあたたかさが私をかえたと思っています。

国をこえたファンの言葉にふれるようになって驚いたのは、多くの人が私と同じような意味でジェレミーと出会い、ジェレミーに助けられた経験を持っている、ということでした。"He has touched my life."と言っている人を何人も知ったとき、それはまさに私のことだ、と思いました。ごく最近でも、同じアジアの女性が、"He has changed my life."と書いているのを読みました。

精神や身体の病で辛い思いをしている人、肉親を亡くした人、心の傷をかかえている人もまた、ジェレミーにひかれ、助けられています。精神の病で死の淵にいた人が、死ぬことを思いとどまったのも知っています。今は亡きイギリスの一人の俳優がそのような力を持つことは、不思議なことにも思えてきます。

悲しみの共同体、という言葉が思い浮かびます。悲しみを背負ってこの世界で生きている私たちに、ジェレミーのあたたかさは、悲しむ個人個人がこの世界にたった一人で放り出された存在ではないことを、感じさせてくれるのだと思います。私たちがこのからだとこころに閉じ込められた孤独な一人ではないことを、感じさせてくれるのだと思います。私にとって、ジェレミーはそういう人です。

RM
最期の日々をジェレミーがどのようにすごしたかを感じさせるような記事を、これまで何回か紹介しました。今度はジェレミーが最愛のJoanが亡くなる時にどう感じていたかを語っているインタビューについて書きます。

私がまだジェレミーのことをよく知らなかった頃、もっと知りたいと思った理由の一つは、ジェレミーが希望について語った言葉を読んだことでした(それが今はみつかりません)。そしてもう一つ、希望に関する忘れられないインタビューは、Joanの最期の日々について、BBCのWogan interviewで語ったものです(YouTubeのここにあります。Part 1Part 2)。

前半ではいろいろなことをジェレミーが楽しそうに話していますが、今回はPart 2の後半、希望について語っているところです。ジェレミーは膵臓がんで亡くなったJoanのことを思い出して、前半とはうってかわって辛そうですが、自分のインタビューが終わってもおそらく自ら望んで、この話題の場に残ったのだと思います。

(2分36秒)ガンを患って治癒にいたった二人の女性の話(この映像には含まれていません)をうけて、インタビュアーがジェレミーに「あなたは2人目の奥さんをガンで亡くしましたが、どう思っていますか?」とたずねます。以下がジェレミーの言葉からの抜粋です。

「希望...最後の瞬間まで希望は生き続けます。そして突然、すべてを手放して去っていくのをみる時が来るのです。最後の瞬間まで私が思いもしなかったのは...。私たちは最後の1分にいたるまで打ち負かされてはいませんでした。そして、ひとのこころとはそのように希望に満ちたものなのです。 (We were not defeated to her last minute, and the human spirit is so full of hope.) 私はそのことを知りました。」

RM

 RM

Author: RM
コメントは承認後に公開されます。古い記事へのコメントも大歓迎です。2010年8月7日に始めました。
私の記事へのリンクはどうぞご自由になさって下さい。
和訳には間違いがあるかもしれません。最近は必ず英語原文を併記・またはアドレスを書いて読めるようにしていますので、どうぞそちらも参考になさってください。

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