Jeremy のことが知りたくて ~ ジェレミー・ブレット(Jeremy Brett)を愛するかたへ

英グラナダ・テレビでシャーロック・ホームズを演じた俳優の人生を言祝いで

しばらくBAFTA賞追贈の請願について書いていましたが、こころの中ではもう一つのことも考えていました。ジェレミーがこの世界を、人を、自分をみるまなざしの奥底にあるもの、です。BAFTA賞追贈のための請願(4)にも書きましたが、多分ジェレミーはお母様の影響を深く受けたのだと思います。でも私が知っているラジオやテレビのインタビューでは、むしろお父様のことを多く話し、お母様のことはほとんど話しません。

お父様に関しては、ジェレミーが演劇の道に進むことにいかに反対し、いかに芝居の世界を知らず頓珍漢なことを言いながらも、後には息子が役者としてやっていけそうなことを喜んでいたか、聴く人の笑いを誘いながら話しています。そして、ジェレミーがインタビューでお父様のことをきかれた時、多くの場合まず言うのが「soldier(軍人)」です。しかしお母様については、たとえばアメリカでのラジオインタビューのDesert Island Discs (1991) では、"Irish, Quaker"と言っていますし、BBCラジオのインタビュー(1989)では、"Mother, Quaker, Irish, Quaker"と少し歌うような調子で言っています。BBCテレビのWogan Interview (1988) では "My father was a soldier; my mother was a Quaker." と言っています。でもそれ以上はほとんど話していません。

母親のことを説明するときに、まず第一に「クエーカー教徒でした」、と説明するのが欧米ではどのようなニュアンスを持つのか、私にはわかりません。ただ、私はジェレミーのことを知るよりも前からQuakerにこころひかれていたこともあって、こころの片隅にこのことがありました。

The Brettish Empireによれば(http://www.brettish.com/tbev2-03.html)ご両親はそれぞれ28歳と19歳の時、バーミンガムのQuaker Meeting Houseで出会ったそうです。Quaker Meeting HouseとはQuakerの集会所のことで、Quakerは教会をもたず、聖職者の取り次ぎがなくても一人一人が神と出会うことができることを信じています。集会は沈黙にはじまり、神との出会いを待ちます。お母様はおそらく、結婚後はクエーカーの集会所に行くことはほとんど、あるいはまったくなく、村の教会に行っていたのでしょう(教会に関するエピソードはりえさんがいろいろとブログで紹介していらっしゃいます)。クエーカーは教条主義的ではありませんから。クエーカーの中には無神論者さえいる、といわれるほど、ドグマにしばらなれない人たちのようです。

私がクエーカーにひかれたのは、2つの方向からでした。一つは精神医学者の神谷美恵子さんから。もう一つは松岡亨子さんが訳したエリーズ・ホールディングの本「子どもが孤独(ひとり)でいる時間(とき)」から。この二つについて話しだすと長くなりますので、本の訳者あとがきから、松岡さんがクエーカーの人たちに対する印象を述べたところを抜き書きするのみにします。「わたしは、この”風変わりな”集団に惹かれ、これに属する人たちに深い尊敬を抱くようになりました。というのは、この小さな宗派は、わたしが宗教やそれを信じている人たちについて、往々にしていやだと思うこと---たとえば、他の宗教に対する非寛容、独善的でこりかたまったものの見方、ことばと行いの乖離、安易に宗教上の決まり文句に逃げこんで、物事を真正面から見ようとしない態度、など---から驚くほど自由だったからです。」「わたしが知り合ったクエーカーの人たちは、非常に知的で、開かれた心の持ち主でした。いわゆる宗教くささはまったくなく、信仰についてことばで語ることはほとんどありませんでした。けれども、まわりに何ともいえず清潔で和らいだ雰囲気をただよわせており、それはどこか深いところから来ていることを感じさせるのでした。」クエーカーは平和主義、平等主義でも知られています。

もちろんクエーカーの人たち皆が皆このようだというほど、単純ではないでしょう。でもわたしはジェレミーのお母様はこのような方だったと想像しています。そしてジェレミーが自分を、ひとを、この世界を、この形ある世界をこえたものをみるまなざしには、お母様の考え方、感じ方が深く影響していたのだと思います。しかしそのお母様は、交通事故で突然この世を去ってしまったのでした。お母様の突然の死の打撃については、雑誌のインタビュー記事などを紹介しながら、いつかそのことを考えて、感じてみたいと思っています。でもお母様の死後、母はクエーカーだった、とだけ言うことが多かったジェレミーの心の中には、お母様の深いところから来る「清潔で和らいだ雰囲気」がずっと生き続けたのではないでしょうか。お母様もジェレミーも、この世をこえたものへのまなざしが、この世を真摯に生きることの中に含まれていることを知っていたからこそ、あの強さとあたたかさを持っていたのだと思います。

ジェレミーの、この世やこの世をこえるものに対する見方を思うとき、あと3つ思いおこすことがあります。一つはリウマチ熱で死の淵まで行って引き返したこと。その時から二つの世界に生きている、とLindaに言っています。もう一つは瞑想をおこない小さな仏像を手元においていたことなどから感じる東洋思想への親和性、そして最後はジェレミーを追悼する集まりである人が、ジェレミーが"Footprints" を持ち歩いていた、と語ったということ(出典はThe Sherlock Holmes Gazette, issue 14)。これは多分 "Footprints in the Sand" という詩のことでしょう (参考:http://www.ieji.org/archive/footprints-in-the-sand.html)。私もこの詩をかつて読んだことがありました。神と並んで歩いていた人が、ふりかえって自分の足跡しかない場所をみつけた。「あなたの試練と苦しみのときに、ひとりの足跡しか残されていないのは、その時はわたしがあなたを背負って歩いていたのだ。」この詩を持ち歩いていたジェレミーの心を思います。たった1人でこの世界に投げ出されたように思う時が、苦しい時が、多分死を思う時が、何度かあったのでしょう。最後の10年で、時としてジェレミーを襲った悲しみについて思うととともに、この詩を持ち歩くことがいくらかでも支えてくれたであろうことを、ジェレミーのために喜びたい気持ちがしました。

RM

参考:
"Quakers" http://www.bbc.co.uk/religion/religions/christianity/subdivisions/quakers_1.shtml
"クエーカーの信仰" http://www10.ocn.ne.jp/~awjuno/sub4112.html
"Who are the Quakers? (日本語)" http://www2.gol.com/users/quakers/who_areJ.htm

ジェレミーへのBAFTA(英国映画テレビ芸術アカデミー)賞追贈をBAFTAに請願する活動についてご紹介する4回目です。この二日でグラナダ関係者や著名人の署名が続いています(署名者名簿はこちら)。このような情報はこの掲示板で知ることができます。Paul Annett(signature no. 3242; ボヘミアの醜聞、美しき自転車乗り等の監督)、Jeremy Paul(signature no. 3253; 海軍条約事件等の脚本、舞台劇The Secret of Sherlock Holmesの脚本を書いた、ジェレミーの友人)、Elaine Page(signature no. 3241; エヴィータ、キャッツなどに出演したミュージカル女優)。

前回は著名人が寄せた支援の文章を紹介しましたが、今回は署名した人が署名欄に残したコメントを紹介したページから2つ、2つ目についてはその一部を抜粋して引用します。

メッセージその1の原文、Claphamの家の屋上でのジェレミーの写真があります)
「私の母はジェレミーをよく知っていました。ジェレミーは母が働いていたClapham Old Townのアンティーク・ショップの常連でした。ジェレミーはよく母とコーヒーを飲みながら、彼の『仕事先』の人々について、楽しいおしゃべりをしたものでした。」

ジェレミーと話すのは楽しかっただろうということは、たとえば先に紹介したBBCのWogan Interview(YouTubeへのリンク)をみてもわかります。声や顔の表情や視線の生き生きとした動き、そして手の動きも。

メッセージその2の原文、バーグマンとジェレミーの素敵な写真があります)
「私はケンブリッジ劇場で上演された "A Month In The Country” で、子役としてジェレミー・ブレットとともに舞台にたつという幸せな経験をしました。キャストにはマイケル・レッドグレーブやイングリッド・バーグマンなどがいました。ジェレミー・ブレットは本当に親切で、時間をまったく惜しまず私を助けてくれました。どうやってステージ用のメイキャップをするか、どのように役柄をしっかりと出して演じるか、どのように動作をとめるかを教えてくれたのです。ある時、彼は体調が悪くて多くの薬を飲んでいたために、舞台に出るタイミングを間違えて、二人で出るところを私が一人で出なければならなくなりました。ジェレミーは間違いに気づいて舞台に出てきましたが、私にこれ以上ないというくらいに感謝して、成長を祝ってくれました。ただの13歳の少年だった私に。舞台がはねた後は、よくシャンパンをあけて、彼が乾杯の声をあげたものでした。『我々に、そして我々のような幸運な人々に乾杯!我々のような人はきわめてまれだろうね!』きわめてまれな、すばらしい才能に恵まれたジェレミーに栄誉を!」

ジェレミーが、13歳の子役の少年にも名のある俳優にも、同じように接したことは想像に難くありません。ジェレミーは人を肩書きや社会的地位で見る人ではありませんでした。これはお母様ゆずりでしょう。りえさんが翻訳なさった「The Grangeでの生活」をお読みになったかたはきっと皆そうお思いになるでしょう。Edwardも、ジェレミーはグラナダ・スタジオのお茶汲みの少年から重役まで同じように接した、と言っていました(The Sherlock Holmes Gazette, issue 15)。本当の意味で(こころの中まで含めて)そうであることがどんなにむずかしいか、私にもわかります。ジェレミーは本質を見る人、自分のことも人のことも、この世界も、まっすぐに見る人だったのだと思います。

RM

1回目でもご紹介したこの活動のウェブサイトには、支援してくれる著名人や団体名が掲載されているページ、「Our Supporters」があって、個人や団体の代表者から送られたメッセージを読むことができます。今回はその中から2つを紹介します。最初はジェレミーの2番目のワトスン、Edward Hardwickeです。(Edwardの支援の文章の原文

「ジェレミー・ブレットは劇場で、また映像作品において、カリスマ的な俳優でした。なぜ彼が生きている間にBAFTAから表彰されなかったのか、まったく理解できません。彼の演劇界への貢献は、BAFTAから賞を受けるのに完全に値するものでした。」

また、Stephen Fry(スティーヴン・フライ、signature no. 742)はイギリスの俳優で、作家、コメディアン、テレビ司会者などとしても活躍していて、イギリスではとても有名な人のようです。彼がTwitterで署名を呼びかけたことにより、2時間で500以上の署名が集まったとのことでした。また2006年までBAFTAの表彰式の司会もしていたそうです。日本では人によっては、「ハリー・ポッター」や「くまのパディントン」の朗読者としてご存知でしょう。私がそうでした。(Stephenの支援の文章の原文

「故人にBAFTAを追贈した前例がどのくらいあるか知りませんが、テレビドラマの歴史において、ジェレミー・ブレットがシャーロック・ホームズを卓越した見事さで演じたものほど、完璧で、豊かな感情があふれていて、美しいまでに本物に感じられて、最も見事につくられたドラマ作品がほとんどないことは、疑いようがありません。彼が生きていたあいだに何の賞も受けなかったのは驚愕する事実で、もしも今アカデミーが彼の成し遂げたことの偉大さを認めて評価するのであればすばらしいのですが。それを望む多くの人達があげる声に、私も喜んで加わります。」

The Sherlock Holmes Society of Londonからのメッセージもあります。以前この団体のウェブサイトにおいて「誰があなたの一番好きなシャーロック・ホームズですか?」という投票をおこない、71%の得票率でジェレミーが選ばれました。アメリカ、フランス、インドのシャーロッキアンの団体も名をつらねています。

また、ジェレミーの1番目のワトスン、David Burkeとも連絡がついて、支援を約束してくれたそうです。「Our Supporters」の中に名前と写真がみえます。

RM

ジェレミーへのBAFTA(英国映画テレビ芸術アカデミー)賞追贈をBAFTAに請願する活動についてご紹介する2回目です。8月23日現在で、3230名以上の署名が集まっています。1回目のご紹介から少し日がたった間に、グラナダ・ホームズの二人のプロデューサー、Michael Cox(signature no. 3165) とJune Wyndham Davies (no. 3179) が署名しています。特にMichael Coxは、グラナダ関係者に声をかけてくれているそうです。Edward Hardwickeご夫妻(no. 504, 505)、Linda Pritchard (no. 613) もすでに署名しています。Paul D. Gilbert (作家、ジェレミーが表紙の本はこちら)、Stephen Fry (俳優、コメディアン等)が署名だけではなく、この活動を支持するメッセージを寄せています。それらのメッセージやファンからのコメント、署名の手順の紹介は次回以降にして、今回はBAFTAへの請願文をご紹介します。

以下はBAFTAへの請願文の日本語訳です。中で言及されるヒース・レジャーという俳優を私は知らなかったのですが、2008年に急逝し、2009年に故人としてははじめてBAFTA助演男優賞を贈られたそうです。

「ジェレミー・ブレットはイギリスの傑出した俳優であり、広く賞賛されたグラナダテレビ製作のシャーロック・ホームズのシリーズで、ホームズを演じたことで有名です。彼は数10年の俳優としての経歴の間、舞台で、映画で、テレビで、多くの役を演じてきました。ジェレミー・ブレットは十分に賞を受けるにあたいする俳優であったにもかかわらず、悲しいことに生きている間に受賞することはありませんでした。彼はBAFTA賞を受けるべき人だったのです。BAFTA賞受賞式典でBAFTA賞のうちのある賞の贈呈者をつとめたことがあったのに、彼自身は賞を受けることがなかったのは本当に残念なことです。BAFTAはジェレミー・ブレットに栄誉を与えなかったことを恥ずかしく感じるべきだと思います。

ジェレミー・ブレットは今はもう私たちとこの世で共にはいませんが、BAFTAはこの注目すべきすぐれた才能を持っていた俳優に栄誉を与え、BAFTA賞を追贈すべきだと多くのファンは思っています。ヒース・レジャーがバットマン映画の中のジョーカー役を演じたことで2009年にBAFTA賞を贈られたのなら、なぜジェレミー・ブレットには贈られないのでしょう。この請願はBAFTAに対して、ジェレミー・ブレットにあまりにも遅くなった賞を今こそ追贈し、演技の世界に数十年にわたって偉大な貢献をしたことを認めて表彰するように求めるものです。もしもあなたが支援してくださるのでしたら、請願書に署名をして下さい。そしてこのことが実現するように、一緒に働きかけましょう!」


私がこの運動の経緯を追っていてうれしいのは、ジェレミーのファンの間に新しいつながりができつつあるのを感じられることです。つながりといっても、まなざしと軽い笑顔でおこなう挨拶のようなこころのつながりが主です。国を越えて(多くの国の人が署名していますが、活動自体には特にフランスのグループが積極的に関わっているようです)、オンライン・オフラインを越えて(オンラインでこの誓願を知ることができない人のために、作家Paul D. Gilbertのサイン会でも署名が集められるそうです。また、ロンドンの劇場やジェレミーの定宿だったマンチェスターのMidland Hotelなどにも誓願に関する手紙を届けているようです)、そして一般のファンと著名人、グラナダ関係者の境を越えて。たとえこの活動がBAFTA賞追贈、という目に見える実を結ばなかったとしても、目に見えないゆたかな実りを関係者のこころの内に残すことを祈ります。

RM

シェークスピアの「トロイラスとクレシダ」のトロイラス役を、ジェレミーは 1956-57 年(20代前半)に演じ、1961年にオーディオブックとして録音しました。このオーディオブックはすでにパブリックドメインとなっているようで、Internet Archiveというデジタルライブラリに登録されていて、全録音をダウンロードできます(ここ、ただしファイルの順番がまちがっていて、正しくは1, 4, 2, 3, 5, 6) 。ですから音声クリップの一部をここにあげても著作権にふれないと思うので、少し紹介します。全部で2時間半以上ですが、その中からジェレミーが出演する部分のハイライトをいくつかあげるつもりです。今日はその1です。

ジェレミーの「トロイラスとクレシダ」については、The Jeremy Brett Archiveのこのページが(今このサイトは工事中で、リンクが切れているところもあります)、シェークスピアのこの劇の粗筋と解説については、このサイトがとても参考になりました。また、著作権の切れたテキストを公開しているProject Gutenbergのサイトから、Troilus and Cressidaの原文をダウンロードできます。日本語は坪内逍遥の翻訳のものは権利が消失しているはずですが、青空文庫にはまだ入っていません。

以下に紹介するのは、上にあげた解説サイトでも引用している、
Her bed is India; there she lies, a pearl;
(あのひとのベッドはインドだ。そこに彼女が、真珠がよこたわる。)
というセリフを含む独白部分です。「彼女」とは恋いこがれているクレシダのことです。Pandar (Pandarus) は恋の取り持ち役、彼に頼るしかありません。下のリンクをクリックすると別ウィンドウが開いて、声が流れます。

mp3, 33秒

Tell me, Apollo, for thy Daphne's love,
What Cressid is, what Pandar, and what we?
Her bed is India; there she lies, a pearl;
Between our Ilium and where she resides
Let it be call'd the wild and wand'ring flood;
Ourself the merchant, and this sailing Pandar
Our doubtful hope, our convoy, and our bark.

アポロよ、ダフネを愛したあなたにききたい、
クレシダは、パンダラスは、わたしはなにものか?
あのひとのベッドはインドだ。そこに彼女が、真珠がよこたわる、
このトロイとあの人のすみかの間には
荒れ狂う海があるといえよう。
それなら私は貿易商人、取り持ち役のパンダラスは
私のおぼつかない望み、私の案内人、私の船だ。
(小田島雄志訳を参考にしました)
 
私はこの「トロイラスとクレシダ」の録音をきいて、ジェレミーの声と台詞運びに魅了されて、それからジェレミーのオーディオブックを探すようになりました。ごく若いころですから、オリヴィエの言葉としていつもジェレミーが引用する「オーケストラの幅を持つ声」にはまだ至っていない時かもしれませんが、若々しい声のなかに情感がこもっていて、音楽的な美しさがあります(劇評のなかで「音楽的」だとジェレミーをほめているものをみたことがあります)。

ジェレミーの経歴について語る文章のなかで、「classically trained」という形容をよく目にします。古典劇を含む演劇における演技の基礎をきちんと教育された、といった意味でしょうか。そのことを感じます。

RM

ジェレミーの自然なあたたかさを示すエピソードで、私が好きなのは、Michael CoxがThe Sherlock Holmes Gazetteのジェレミー追悼号に書いた、ジェレミーがホームズ役を提示された日のレストランでのエピソード、そして今から紹介するものです。

1995年11月29日(水)にロンドンのSt. Martin in the Fields教会で行われたジェレミーを追悼する集まりに出席した女性が、ジェレミーファンのウェブサイトThe Brettish Empireの主催者に会の様子を知らせてくれた中で書いているものです。(この教会にりえさんがいらした時の記事はこちらです。)

「皆が愛情あふれる思い出を持っていました。ジェレミーは一緒に働くのに最高のすばらしい人で、そしてとても愛情豊かな人だったことがわかります。誰かを元気づけたり喜ばせることができるならいつだって時間を惜しまないし、楽しい集まりを計画していました。私も自分の思い出を話したいと思います。私が『空き家の怪事件』の撮影現場の見学に言った時のことです。スタッフの一人が夜の撮影で足をすべらせて足を痛めてしまった時、ジェレミーはその場所へ行き彼のそばにずっといて、彼と話をしていました。その間に医者が呼ばれ、そして彼は治療のために運ばれて行きました。それは心のこもったやさしい行いで、特に寒い2月であることを考えると、スターの誰でもがそうするとはとても思えませんでした。」

私がこのエピソードが好きなのは、ただそばにいる、という一番純粋で原初的な行いが、いかにもジェレミーらしいあたたかさを感じさせるからです。撮影現場で怪我をしてしまったスタッフは、怪我の痛さよりも、これからの撮影への影響を考えていたたまれない気持ちだったでしょう。その時にただそばにいて、話をきいてくれて、慰めて落ち着かせてくれる。自然にこころからわきでるやさしさを感じます。

その後に彼女が書いていることもちょっと微笑ましいのです。ジェレミーが独特だということと、まわりの人に強い印象を与えるということのあらわれだと思います。そしてEdward Hardwickeがジェレミーのよき友人だったことを、あらためてうれしく感じます。

「Edward Hardwickeをはじめとする何人もの人はジェレミーのことを話す時、きいている人がジェレミーの様子をまざまざと思い起こすことができるように話すので、ジェレミーと実際に話しているような気になりました。」

RM

出典:The Brettish Empire, Vol II-1
http://www.brettish.com/tbev2-01.html
前回に続いて、もう一つ、別の写真サイトをご紹介します。写真雑誌「Life」のウェブサイトです。たとえば前回紹介したGetty Imagesで、この写真は1961年2月12日撮影、一緒にうつっているのはMary Ureだと書いてありますから、芝居の題名はここには書いてありませんが「The Changeling」です。とてもきれいなのですが、gettyimagesのロゴが邪魔です。同じ写真を写真雑誌「Life」のウェブサイトでは、ほとんどロゴに邪魔されずにみることができます(Lifeのウェブサイトでの写真)。

ただ、この写真はなぜか、Lifeのウェブサイトで「Jeremy Brett」で検索しても、以前は出て来たのですが今は出てこないようです。Lifeで検索して出て来るのはこの写真 ("The Rest Cure", 1963年) のみで、検索してもヒットしないけれども私が知っているジェレミーの写真は、先の1枚以外はこの写真 ("A Voyage Round My Father", The Haymarket Theatre, 1971年8月3日) とこの写真 ("War and Peace", 1956年) です。

このような商用の写真データベースで、プレビュー画像にもwatermark(というようです。日本語では透かし)を入れるようになったのは割と最近のようで、透かしのない時代にダウンロードした画像がファンサイトには多くみつかります。また、The Secret of Sherlock Holmes (1988-89) の舞台写真を購入できるサイトで、watermarkのないプレビュー画像があったのに、ある時を境にwatermark入りになったのを私自身も知っています。

RM
ジェレミーの写真はウェブ上も本にもたくさんあります。ただ、撮影された日時、場所、状況がはっきりと示されているものは多くはありません。それはそれでおもしろくて、たとえばそれぞれ別々に見たことがある写真が、同じ場所、おそらく同じ時に撮られたものであるらしいことに後で気づいたりします。この2つは、片方は雑誌の表紙でカラー、ホームズファンのコミュニティに投稿されたものです。片方は「A Study in Celluloid」にあったカメラマンとのスナップで白黒写真(ウェブ上でもみつかります。著作権のことはよくわからないのですが、小さくして載せます)、説明には「シリーズの多くでスチール写真を撮った写真家Stuart Darlyとジェレミー」とあります。別々に見たのでその時には気づきませんでしたが、後ろの花も、フェンスも、ジェレミーがすわっているベンチのてすりと背中のデザインも、雑誌の表紙のものと同じものだと思います。ジェレミーの表情がホームズを演じるときにすっかりかわるのには、いつみても驚きます。(クリックで少し大きくなります。)



今回は、撮影された日時や状況や一緒にうつっている人などが記されているものを紹介します。

Getty Imagesというウェブサイトは、写真などの配信をてがけるサイトのようです。日本のゲッティ・イメージズではヒットしないのですが、Getty Imagesを"Jeremy Brett”で検索すると、現時点では21枚の写真をみることができます(21枚のリスト)。クリックして写真を大きくすると「gettyimage」のロゴが入ってしまいますし、どれもウェブ上でロゴ無しのものをみたことがありますが、クリックした画面には撮影日時や状況などがくわしく書いてあるのがうれしいです。ただし1月1日に撮影した、とあるのは、撮影年はわかっても月日がわからないものでしょう。

たとえばこの写真はGetty Images以外では、ファンが投稿したものを見たことがあります。ここの上から2番目の写真で、クリックすると大きくなりますし、ここには他にもよい写真がたくさんあります。

でも最初にこの投稿された写真を見たときは、ジェレミーのところだけ切り取ってあったので、スキー板に抱きついているのかと思っていました(The National Theatreでローレンス・オリビエと、とは書いてありますが)。はちまき(ヘアバンド?)のようなものもしています。Getty Imagesでのこの写真のタイトルは「Ladder To Stardom(スターへのはしご)」、Captionのところを読むと、撮影は1970年6月5日、ヴェニスの商人のキャストをThe Cambridge Theatreの外でうつしたものだそうです。前にいるのがローレンス・オリビエご夫妻です。はしごは左上にうつっているThe National Theatreの看板を劇場の外に掲げるためでしょうか。オリビエのもとで芝居にうちこむジェレミーの充実した様子が伝わってきます。この芝居については、りえさんが資料館にある資料について書かれています。

21枚の内で、ハムレットを演じた時の写真と、ハムレットのポスターがみえる写真については、ハムレットに関する話題の時にご紹介したいと思います。これ以外の、個人のものではない写真サイトについてもまたあらためて。

RM
ここには情報を主体として書く事にして、自分の気持ちはあまり書かないつもりでしたが、何を書くか、に自分の気持ちがあらわれるということに、あらためて気づきました。またこんなに続けて書くつもりもなかったのですが、寝苦しい夜に書きたくなります。忙しくなったら、無理をしないようにゆっくりと書いていこうと思っています。

読んでいるかたのうち、お一人でも喜んで下さるような情報を書けたら、という気持ちは常にあります。それが原点であることを忘れないようにしたいです。その意味では、ジェレミーの最期の日々のことを読んで、悲しい思いをする方もいらっしゃるかもしれない、と思ったりもします。お詫びせねばならないかもしれません。でもあらためてこう思いました。ジェレミーは、ひとはあのように生き、あのようにこの世を去ることができる、そしてからだは失われてもなお、失われないものがあるということを教えてくれたという意味で、私にとって道を照らす灯りなのだと。

「情報」という堅苦しい言葉を透かしてみると、私はここを今みて下さっているかもしれない方に、この先ここをみつけて下さる方に、今と未来の自分自身に、そしてジェレミーに手紙を書いているような気がします。

お一人、ジェレミーのことをほとんど知らずに、でも数回のぞいてくださったかたがいらっしゃるのを知っています。私が当初ブログの設定がよくわからずに、自分の足跡を残してきたからでしょう。読んでいただけるというのは、うれしいことだということがわかりました。私が「情報を主体として」という自分が発した言葉にからめとられずにすんだのは、純粋な情報(本はどこで買えるか、など)そのものには興味がないそのかたがいらしたからかもしれません。感謝いたします。ちょっと恥ずかしいけど。

RM
最期の日々をジェレミーがどのようにすごしたかを感じさせるような記事を、これまで何回か紹介しました。今度はジェレミーが最愛のJoanが亡くなる時にどう感じていたかを語っているインタビューについて書きます。

私がまだジェレミーのことをよく知らなかった頃、もっと知りたいと思った理由の一つは、ジェレミーが希望について語った言葉を読んだことでした(それが今はみつかりません)。そしてもう一つ、希望に関する忘れられないインタビューは、Joanの最期の日々について、BBCのWogan interviewで語ったものです(YouTubeのここにあります。Part 1Part 2)。

前半ではいろいろなことをジェレミーが楽しそうに話していますが、今回はPart 2の後半、希望について語っているところです。ジェレミーは膵臓がんで亡くなったJoanのことを思い出して、前半とはうってかわって辛そうですが、自分のインタビューが終わってもおそらく自ら望んで、この話題の場に残ったのだと思います。

(2分36秒)ガンを患って治癒にいたった二人の女性の話(この映像には含まれていません)をうけて、インタビュアーがジェレミーに「あなたは2人目の奥さんをガンで亡くしましたが、どう思っていますか?」とたずねます。以下がジェレミーの言葉からの抜粋です。

「希望...最後の瞬間まで希望は生き続けます。そして突然、すべてを手放して去っていくのをみる時が来るのです。最後の瞬間まで私が思いもしなかったのは...。私たちは最後の1分にいたるまで打ち負かされてはいませんでした。そして、ひとのこころとはそのように希望に満ちたものなのです。 (We were not defeated to her last minute, and the human spirit is so full of hope.) 私はそのことを知りました。」

RM
今日はりえさんがロンドンを離れる日(りえさんのブログの記事はこちら)。"When I Was a Child" という、ジェレミーへのインタビュー記事の最初の部分をりえさんへの感謝もこめて、ここで翻訳してご紹介します。正確な日付はわからないのですが、今回は訳していない最後の部分でジェレミーが、「ホームズを7年演じている」と言っているので、1991年頃のものでしょう。English Woman's Weeklyという雑誌が初出だという記述をみつけましたが、はっきりとはわかりません。抜粋して引用します。

「1933年11月3日に私の人生ははじまりました。子供なら誰でも望むようなものすべてと共に。コベントリーの近く、バークスウェルのはずれの大きくてすばらしい屋敷には、テニスコート、スカッシュコート、そして馬と犬がいて、芸術的なセンスがある母エリザベスがつくった庭がありました。3人の住み込みの人と、それ以外に4人の人が家のことをしてくれていました。いつも素敵な人を家にたくさん招いていたようで、人がたくさんいました。家のドアはいつも開いていたのです。

父はヘンリー・ウィリアム・ハギンズ大佐といって、第一次世界大戦で多くの勲章を得た英雄でした。子供の頃のことで覚えているのは、父がよく馬に乗っていたことです。

そう昔のことではないのですが、以前の我が家だった家へ車ででかけました。現在そこに住んでいる人を僕は知らなかったのですが、でも住んでいる人達はすぐに僕のことをわかってくれました。「あなたはジェレミー・ブレットですね!」そして僕にたずねました。「この壁にあるのは、あなたの手形ですか?」そうでした。僕が3歳の頃、客間を広げる工事をしたのですが、その時にぼっちゃりした小さな手を、外のレンガ積みのまだ湿ったコンクリートのところに押し当てたのでした。

兄弟は他に3人いました。5歳離れた一番下の子供だったので、兄達のいらなくなった服を着て、兄達は学校が休みの時に自分たちだけで遊びにいくのに、僕は乳母とすごさなければならないことに、少し腹を立てていました。

僕にも遊び友達がたくさんできましたが、でもよく同い年のいとこのジョアナと一緒にいました。僕は怒ると彼女の髪をひっぱったり、お下げ髪を切ったりしたので、彼女はとても怒りました。僕たちは18歳になってお互いに相手がいやがることをしなくなって、とてもよい友達になり、今でもよく会っています。ジョアナはいまは孫がいる素敵なおばあちゃんです。」


出典:"When I Was a Child", English Woman's Weekly, 1991(?)(前半のみ)

手形のこと、りえさんの記事にありましたね。そしてりえさんがお会いになったのは、ここでジェレミーが話しているかたですね、きっと。りえさんには以前この記事のことをお話しましたが、ここを読んでくださるかたにもご紹介したくなって、今日書きました。英語の原文と記事中のジェレミーの写真をご覧になりたいかたはここの上から2番目で、クリックすると大きくなります。海辺での小さなジェレミーの写真もあります(下にのせました。ただしこの写真はクリックしても同じ大きさです)。このページには他にもたくさんよい記事がありますので、また一部を紹介したいと思っています。
When I Was a Child

RM

追記:こちらで後半部分を紹介しました。

 RM

Author: RM
コメントは承認後に公開されます。古い記事へのコメントも大歓迎です。2010年8月7日に始めました。
私の記事へのリンクはどうぞご自由になさって下さい。
和訳には間違いがあるかもしれません。最近は必ず英語原文を併記・またはアドレスを書いて読めるようにしていますので、どうぞそちらも参考になさってください。

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