Jeremy のことが知りたくて ~ ジェレミー・ブレット(Jeremy Brett)を愛するかたへ

英グラナダ・テレビでシャーロック・ホームズを演じた俳優の人生を言祝いで

Jeremyが亡くなる前の週に、お互いに深い友情を感じ、お互いに大切に思っていた、Gary Bondという俳優を病院にたずねたことを最近知り、その時のジェレミーに想いを馳せています。Gary Bondは1940年生まれで、ジェレミーが亡くなったちょうどひと月後に、AIDSによる合併症のために亡くなっています。私は、亡くなる前に二人が会っていてほしい、と願っていましたので、このことをきいたとき、静かな安堵の気持ちを感じました。

Jeremyの生涯の中で、結婚という形で人生を共にしたのは、AnnaとJoanでした。そしてもう1人、ジェレミーの生涯の内の7年間にわたって、人生のパートナーとして大切な存在だったのがGary Bondでした。GaryのことはTerry MannersのThe Man Who Became Sherlock Holmesという本ではじめてその名を知りました。この本は引用元や発言者の名前をまったくひかずに書かれており、もっと悪いことに内容に多くの脚色がされていることは、多くの人が指摘しています。私もそのような部分をいくつかみつけました。たとえばあるインタビューに書かれていた内容が、違う時期、違う状況の記述にはめこまれ、勝手な脚色がほどこされている例はいくつもあります。しかも多くは、悪い方へ、扇情的な内容の方へ、気持ちが暗くなる方へ書き換えられています。そのような本のなかでふれられているGary Bondという俳優とのパートナー関係は、どこまで信用してよいのかわかりませんでした。

今年の春になって、Garyの友人だった女性が、ジェレミーを愛する人たちにGaryとJeremyのことについて話してくれるようになりました。彼女は長年のジェレミーのファンでもありましたが、最近までジェレミーのファンのつながりには参加していませんでした。そしてGary Bondとのことがジェレミーのファンの中で無視されている、あるいは話題にすることを避けられていることを知り、ショックを受けたそうです。ジェレミーのことを語る時、ジェレミーが大切に思った人、ジェレミーが結婚した人のことが語られるのは自然なこと、でもパートナーの中で1人だけが捨て去られているのはおかしい、と言っています。

私もまた、Garyのことは考えないようにしていました。理由はいくつかあって、先ほど書いたように本当のことかがわからなかったこと、本当かどうかも、ジェレミーとGaryの気持ちも、すでに知りようがないと思っていたこと、そして同性同士のパートナー関係ということを今まで考えたり感じたりしたことがなくて、当惑の気持ちがあったこと、などです。

でも今回Garyの友人だった女性が語ってくれたことは、Terry Mannersの本とは違って、私は完全に信じています。二人の結びつきは話をきいて当惑したり、かくしたりするような暗い関わり方でなく、とても美しい、生きる喜びと笑いを共有する関係だったことがわかりました。そしてGaryはとても才能あふれた俳優で、ジェレミーと似たところをたくさん持っている、魅力的な人だったことも知りました。

ジェレミーは伴侶となった2人の女性のこととは違って、Garyのことは何も語っていません。このことについては、一つは時代背景を考える必要があるようです。イギリスでは1967年まで同性同士の愛情関係は法律違反でした。二人が出会ったのは1969年だと彼女はGaryからきいたそうです。またジェレミーがGaryのことを語っていないのは、この関係を後悔して忘れたいと思っていたということではまったくない、と彼女は言い、私もそのように感じます。彼女が教えてくれた二人のこと、死ぬまで続いた友情、ジェレミーが二人がうつっている美しい写真を最後まで持っていたことがそれを示しています。また近くに住んでいた友人のJohn Schlesingerの自伝で二人のことが触れられているように、知人の間では秘密ではなかったようです。

彼女が、「JeremyとGaryの関係について語ることは許されないのか?」とファン・フォーラムで問題提起した投稿はこちらで読めます。多くのファンが彼女を支持していますが、異なる意見の人もいて、いろいろな人の考え方を知ることができました。
http://community.livejournal.com/jeremybrett/285844.html

また彼女は今年の秋に、Gary Bondについての情報や写真を集めたウェブサイト"The Wonderful World of Gary Bond"をつくりました。
http://www.thewonderfulworldofgarybond.com/
その中の"Gary Bond's significant others ... a celebration" (Gary Bondにとって大切な人たち...彼らをたたえるために)というページに、JeremyとGaryの美しい写真も含めて、二人の関わり合いが記されています。抜粋してご紹介します。
出典:http://www.thewonderfulworldofgarybond.com/significant-others.html

このウェブサイトを作ることを計画するにあたって、Gary Bondの生涯において重要だった人たちを賞賛し感謝する場所をもうけるべきかどうか、ずっと考えてきました。私はそうすべきだと思いました。ある人にとってとても大切な存在というのは、この世界でその人が生きた生き方、なしとげたことに深い影響を与えてくれた存在だからです。ほめたたえ、ことほぐべき人たちなのです。そう考えて、私は愛情と尊敬の気持ちとともに、Garyととても親しかった二人の人のことを紹介します。

Jeremy Brettは1969年頃から1976年頃までのGary Bondのパートナーでした。ジェレミーは舞台、映画、そしてテレビで俳優として活躍しました。グラナダテレビのシリーズでホームズを演じたことが、おそらく現在では最も有名でしょう。ジェレミーはGaryと同様、軍人を父に持ち、同じようにCentral School of Speech and Dramaを卒業しました。Garyとジェレミーは1969年12月に行われたNoel Cowardの誕生日コンサートではじめて言葉をかわし、その後二人はパートナー関係を結び、West LondonのNotting Hillで数年間をともに暮らしました。二人のこの関係はジェレミーがJoan Wilsonと結婚する少し前に終わりましたが、二人は生涯にわたって親しい友人であり続け、お互いのことを思いやる気持ちを持ち続けました。

その他に彼女が教えてくれたことは、彼女のウェブサイトにも書かれていますが、Garyはミュージカルにも多く出演して音楽を愛していたのと同時に、シェークスピアやオスカー・ワイルドなどの対話劇にも多く出演し、コメディも得意だったこと、ジェレミーと共演することは残念ながらなかったけれども、同じ役はいくつか演じていること。ジェレミーと同じように明るくて茶目っ気があって、友人が多く、亡くなるまで美しい容姿を持っていた俳優だったこと。ジェレミーと別れたことはとても辛いことだったけれども、ジェレミーへの友情をもちつづけ、ジェレミーがどういう人かをこころのこもった言葉で彼女に伝えたこと。そして"Gary Bond's significant others"でジェレミーの次に書かれている才能ある人形作家と共に暮らし、彼がGaryを看取ったこと。

私はGaryが好きになりました。それまで名前だけで真偽のほどもわからない男性のパートナーのことは、考えずに放っておいていましたが、今はジェレミーの人生における大切な人として、私のこころの中にも刻まれています。そして、人生のパートナーとしては自ら離れていったけれども、死ぬまで続く美しい関係を築いたジェレミーのこともますます好きになりました。彼女はこう書いています。情熱とロマンスは失われても、二人の友情は死ぬまで続き、お互いのことを深く気にかけていた、と。

そしてつい最近、ジェレミーはGaryを数回病院に見舞ったことを教えてもらいました。最後はジェレミーが亡くなる前の週で、その時すでにGaryの病はとても重かったそうです。二人はこの世での時がもう長くないことをお互いに知っていて、静かな時をすごしたのだろう、と書いてくれました。ジェレミーがこの世を去るとき、ジェレミーが愛し、大切に思った人たちの1人として、Garyのことが静かにこころの中を流れていったのだろうと思います。二人がこの世での最後の時に会ったことを知って、私は静かなよろこびに満たされました。

Gary Bondの写真です。クリックで少し大きくなります。1番目と2番目はジェレミーとパートナー関係にあった時です。1番目はとても成功したミュージカルをフィルムにおさめたもの、2番目はAffairs of the Heartというシリーズの中の一本で、ジェレミーもこのシリーズの"Grace"という作品に主演しています。
Courtesy of The Wonderful World of Gary Bond

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Joseph and the Amazing Technicolor Dreamcoat (1972)

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Affairs of the Heart: Milly (1975)

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After The War: Partners (1989)

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(1990s)

RM
先日、I need a hug. というタイトルで書いた時にご紹介したインタビュー記事から、もう少し抜粋して引用します。ジェレミーがLinda Pritchardのことを語った部分があります。その後、The Jeremy Brett-Linda Pritchard Storyから、ジェレミーが16歳でリウマチ熱にかかった時のことをどう言っているかについてお話しします。(この記事は表現に気になるところがあって後日一部を書き加えたり、書き直したりしました。申し訳ございません。)

ジェレミーは、病から回復したのはリンダのおかげだ、と言った。二人は、彼女がガン研究のための募金活動として海岸線に沿ってイギリス中を走ることを計画していた時に出会った。「ちょうどその時に3000ポンドの賞金を得たので、その活動のために彼女に寄付したのです。」何の賞ですか?彼は少し間をおいて、照れた様子で「パイプスモーカー・オブ・ザ・イヤーです。」そしてこう続けた、「リンダはバスの運転手をしていたのですが、本当にありがたいことに、その仕事をやめて病気の私を助けてくれました。病気がとてもひどくて、心が身体を離れてしまった時、多分1時間くらいでしょう、そして戻ったとき、リンダが、この小さな妖精がベッドの足元にすわっていました。リンダは私が飲んでいる薬すべてについて尋ね始めました。彼女は私を救ってくれました。奇跡がおこったのです。私は16歳の時にリウマチ熱にかかったのですが、その時の病気のせいで心臓が肥大して心臓の弁が弱くなっていたのでした。」そしてそれが気分の揺れの原因だった、とジェレミーは言った。「私は生まれかわりました。血液には酸素がきちんと 運ばれるようになり、脳は生き返りました。今までにないほど健康です。」

この部分を読んでまず感じるのは、ジェレミーがLindaに感謝していたことです。そしてもう一つは、双極性障害もリウマチ熱が原因、あるいは遠因だった、それがわかって適切な治療を受けたことで健康状態がとてもよい、と話していることです。これが本当ならば、16歳の時のリウマチ熱はなんとジェレミーに多くの影響を与えた事でしょう。心臓の病だけでなく精神の病もひきおこしたことになります。ただ、もう一つの可能性として、ジェレミーがそう思い込んでいた、あるいは病識がない状態にあったのかもしれません。というのはLindaもDavid Stuart Daviesもリウマチ熱による心筋肥大と双極性障害の因果関係については何も書いていないのです。

追記:Bending the Willowの中に、「1993年11月に病気のために撮影ができなくなったのは、精神の病のためではなく心臓の病のためであることがわかり、今健康状態はかなりよくなりつつある」というPress releaseの文章が紹介されているのに気づきました。これは実際よりも重大でなくとられるように書き換えられたものだ、とDavid Stuart Daviesは言っています。この時の話はこのPress releaseに沿った内容のようです。

追記その2:この頃のことを人からきいていて、この時ジェレミーはかなり精神の病が重くて、いろいろな点で思い込みが生じていたと感じている人が複数いることを最近知りました。この後あまり間をおかずに入院しているはずで、その可能性はあると今は思っています。



このインタビューの中で、インタビューアが「結婚は?」と尋ねたときに、「多分私は天国で結婚しているのだと思います。」と答えています。Joanのことでしょう。ジェレミーとLindaは、結婚につながるような関わりあい方ではなかったのだろうと思います。

リウマチ熱の後遺症としての心筋肥大症が、ジェレミーの死の直接の原因となりました。でもLindaの書いた本を読んで驚いたのは、16歳の時のリウマチ熱で死の近くまでいったことが、その後のジェレミーを導いたことです。父親のためにその後をついで軍人になることが、この病気が原因で不可能になったことはそれまでも知っていましたが、それ以上にジェレミーにとって大きな意味をもっていたことを知りました。The Jeremy Brett-Linda Pritchard Storyから引用します。

「この病気で良かったことが一つあるんだ。一番悪くなって死の近くまで行った時、わかったことがある。はるかに高いレベルの意識に深く触れた瞬間があったんだ。でも困ることは、そのレベルからそれ以来おりてこれない、ってことだよ。」彼は笑った。「僕はずっと二つの世界の間で生きているんだと思う。この地上の世界と、この世でしばらく生きた後に行く世界と。そしてその二つの世界の間で生きていることは、僕をとても助けてくれている。」

"And there's one good thing that resulted from that ailment. When the illness was at its peak and I was very close to death, that was when I managed to touch the petticoats of comprehension. There was a moment when I was given an insight into a much higher level of consciousness. The trouble is, I haven't come down from that level since," he laughed. "I think all my life I have been bordering between two worlds: the world we live in on earth and the one to which we go when our earthly sojourn comes to an end. Actually, it is something that has really helped me."


この本を読むまで、ジェレミーが世界に対してこのような感じ方を持っている人だとは知りませんでした。ある種の臨死体験をしたのだと思います。そしてジェレミーがこのような人だということを深く感じながらこの本を読み続けて、空が白み始めたころジェレミーの死の時を迎えて、嗚咽しながら読み終えた時、私の中で何かが死んで、新しく生まれたものがありました。私もあの時、この世をこえた世界を感じたのだと思っています。それが私にとって、ジェレミーの魂が私に触れてくれた瞬間でした。このこころとからだをこえたものがあることを知った瞬間でした。

RM
前回触れた、南アメリカでのヒッチハイクの旅についてご紹介したくなりました。このことをはじめて知ったのは、1991年のラジオインタビュー番組、Desert Island Discsを聴いたときでした。この内容はりえさんのブログのコメント欄で紹介させていただきました。当時は言葉を文字に書き起こしたものを持っていなくて、なんとか理解しようとこの番組全体にわたって何回も何回も聴いたので声の調子も含めて完全に覚えている、大好きなインタビュー番組です。でも調子は覚えていても英語として聞き取れないところはたくさんあったのですが、その後文字に書き起こしたものを手に入れたので、再度少しずつ紹介します。この音声は再開準備中のThe Jeremy Brett Archive (Jeremy Brett Informationと名前をかえるようです)で聴けるはずですので、そうなったら追記にてお知らせします。

(The National Theatreでのオリビエとの4年間の話の後で)

本当に刺激的でわくわくする日々でした。でも私は完全に消耗してしまって、いえ、消耗ではなく世界が灰色にみえるようになって、そこを離れることになりました。そして6ヶ月間にわたって南アメリカにヒッチハイクの旅に出たのです。

(南アメリカのどこですか?)南アメリカ全部です。まずチェ・ゲバラの国に行きました。チェが生まれたアルゼンチンのロサリオにまず行って、それからボリビア、ボリビアのオルロのカーニバルに行って、そしてインカ帝国の国々、マチュピチュへ向かいました。

(息子さんはそのとき学校へ行く年齢だったのですか?)
息子は多分14歳だったでしょう。私はまだ妻と出会っていませんでした。二度目の妻と。それからチリ、平原を横断してブエノスアイレス、そしてリオ・デ・ジャネイロへ行って、そして家に戻って、「ああ、このすばらしい旅を経験したら、もう働く気持ちが失せるだろうと皆に言われたなあ」と思いました。でも家にもどったら電話のベルが鳴って、ジョン・モーティマーが言いました。「ジェレミー、父の人生を劇にするためにキャスティングをしているのだけれども、僕の役をやってくれる?」これが1971年の舞台「A Voyage Round My Father」のはじまりでした。

Thrilling, thrilling time... but I had to leave because I was absolutely worn out; not worn out - grey. So I went off to South America and hitchhiked for six months.

(Where in South America?)
All over, I went "Che country". I went to Rosario to his birthplace first. And then I moved through to Bolivia and went to the carnival in Oruro in Bolivia and then on to the Inca kingdoms, Machupicchu...

(Your son was at school at the time?)
He was 14, I think. I had not met my wife then - my second wife. Then I went to Chile, then across the plain to Buenos Aires, then up to Rio and back and I got home and I thought "gosh, they told me I'd never work again if I did this amazing journey". The phone rang and it was John Mortimer... .


どんな旅だったのか、1979年のインタビューで話しているのを紹介します。

「南アメリカでのチェ・ゲバラのすばらしい功績にとても興味があったので、南アメリカで彼の足跡をたどろうと決めました。でも彼はボリビアで亡くなったので、彼をたどる旅は悲しいものでした。

「それからインカ帝国の国々へ行きました。ずっとインカ帝国に興味があって魅了されていたからです。それからチリ、ブラジルへ行って、そして帰国しました。

「ほとんどお金は持たずに行きました。お金がなくても自分の力で生きていけるかをためしてみたかったのです。6ヶ月滞在して、ヒッチハイクで旅しました。

「旅の途中で働きました。石を採ってみがいて、並べて売ったこともあります。チリでは貝殻をたくさん手に入れて、ものすごく小さいねずみをピンセットをつかってつくって売ったら、ずいぶんたくさんお金をかせぐことができました。」

"... I was very intrigued by [Guevara's] exploits over there, so I decided to go and follow his route. Actually, this was a rather sad thing to do because, of course, everything ended for him in Bolivia.

"I then went into the Inca Kingdoms because they have always fascinated me, then into Chile, and Brazil, and back home.

"I went with very little money because I wanted to see if I could survive without any, make it on my own. I was away for nearly six months, and I hitch-hiked a lot.

"I worked there, too. At one point, I got some stones and polished and set them and sold them on the spot, and in Chile I got lots and lots of shells and with a pair of tweezers I made tiny little mice, which I sold for quite a lot of money."


(出典: http://www.brettish.com/middle-stages.html)

余談ですが、この旅については、チェ・ゲバラを演じるための旅だったのか、The National Theatre (1967-70)をやめた後、つまり演じた後だったのか、はっきりしないところがあります。ラジオインタビューでは明らかに後者なのですが、David Stuart Daviesの著作 'Bending the Willow'や、ある新聞の追悼記事の中では、前者のように書かれていました。また、息子のDavid (1959年生まれ)の年齢はどちらの場合も14歳よりも若いはずなのです。それで、ジェレミーは正確な日付や年号や年齢にはあまり気をつけない、伝記作家泣かせの人だ、とファンフォーラムで半ば冗談のように話題になったことがあります。Joanと結婚した年も、インタビューや記事によって違っています。ただこれは、日本だったら式をあげた年と籍を入れた年が違う可能性はあるでしょうが、イギリスやアメリカではどうなのでしょう。私はジェレミーについて書くとき、いつのことかわかるようにできるだけ年号をいれるようにしているのですが、年号や前後関係については後々修正が必要になるかもしれません。

南アメリカでヒッチハイクの旅をしたという話は、ジェレミーの自由で冒険を好む面を教えてくれました。私はジェレミーを知った最初は、こういう面を考えてもいませんでしたが、今は大好きです。Lindaの本に、いつどこで撮ったのかわからないけど、という断り書きとともに、木造の納屋の壁のようなところに鋭い目つきのジェレミーが腕を組んでもたれている写真がありましたが、あれはこの旅の途中かもしれないと想像しています。汚れたゴム長靴をはいた、いかにも野性的な姿です。最後にこの写真をご紹介します。


チェ・ゲバラを演じたときの舞台写真はこちらの記事中で紹介しました。これも好きな写真の1つです。

RM
私がジェレミーのファンフォーラムへの書き込みを読むようになって知った言葉に、'zest for life'という言葉があります。ジェレミーはこの人生を愛して、情熱を持って生きた人だった、と。

David Stuart Daviesは著作Bending the Willowの中で、ジェレミーのことを、「生きることへの強い情熱を持っていた人、笑うことを楽しみ、笑いをもたらすことを楽しんだ人(a man who had such a fierce passion and a verve for life―a man who so enjoyed laughing and creating laughter)」と述べています。またこの本の別の場所では、最後にジェレミーに会った時にジェレミーは、「僕とホームズとで共通するのはただ一つ、情熱だと思う。僕の場合は人生への情熱、彼は仕事への情熱。(The only thing I do have in common with Sherlock Holmes is a kind of enthusiasm: mine is for life, his is for work.)」と言ったと書いています。最後に二人が会ったのは、亡くなる年の2月のことだったと思います。

こういう生きることを楽しむ情熱は、時として少年のような、子供のような言動としてあらわれることもあるのでしょう。ジェレミーのこういう面は、冒険を楽しむことが不得意だった私の背中を押してくれます。私はジェレミーと出会って、どれだけの新しい冒険をしたことでしょう。そしてこれから引用する部分はジェレミーの話し方も含めて、私は大好きです。笑い声がきこえるようです。

ただ、引用元が書かれていなかったので、これが本当にジェレミーが語ったことだという100%の保証はありません。でも私はそうだと思っています。ジェレミーがカナダに住んでいた時の家の裏庭で、と書いてあったので、これはカナダの演劇フェスティバルで公演を行っていた頃のことでしょう。

暖かい日だったので、ちょっと日光浴をしようと思ったのですが、隣に住んでいたお年を召した厳格なお二人が恐れをなして家の中に駆け込んだのです。その埋め合わせをするために、二人を英国式のお茶の会に招きました。もちろんちゃんと服を着て、ね。

"It was a warm day and I thought I'd do a bit of sun bathing, but my two puritanical elderly neighbours were horrified and ran inside. To make amends I invited them round for a proper English tea―fully clothed of course."


出典:http://losira.livejournal.com/2367.html(ジェレミーファンの個人ブログです。フランスのファンサイトにも同じ引用があります。http://www.jeremy-brett.fr/crbst_201.html)

太陽が気持ち良くて、思わず服を脱いだのだろうなあと思います。こういう、人生を子供のような気持ちで楽しむところが好きです。ジェレミーの中には、この人生に向き合う賢者としての顔と、小さな子供のような、少年のような顔が同居しているようです。たとえば70年代にごく親しい友人と一緒に、休暇にヌーディストビーチに行ったこともあったそうです。突然思い立って空港に行き、その時離陸する最初の飛行機に飛び乗ってハワイに行った時のことは、以前ご紹介しました。そして、南アメリカをほとんどお金を持たずにヒッチハイクの旅をしたこともありました。この旅のことは、また後日ご紹介しましょう。

この人生を今日生まれた子供のように愛した人、精神の病で苦しかった時も、健康状態が悪化した時も生きる希望を失わず、でもこの人生の次の世界にも向き合った人、そして最後に静かにすべてを手放してこの世界を去って行った人。ジェレミーはやはり私にとって、生きることと死ぬことを教えてくれる人です。遠いイギリスの、今はこの世にいない一人の俳優が多くの人の人生に今も触れてくれることを思うと、この世の不思議、恩寵、という言葉が私の中に思い浮かびます。

RM
オペレッタThe Merry Widowを紹介する4回目です。ジェレミーのシーンを中心にしてお話を追っています。前回ご紹介した、ジェレミー演じるダニロと、大富豪の未亡人アナが再会する場面から、今日ご紹介する二人の歌のシーンに入ります。この歌はCDには収録されていないのですが、意地っ張りな二人の掛け合いがとても魅力的です。

YouTubeでは前回の続き、Part 3の2分10秒くらいから。
歌のタイトルは「All's one to all men where there's gold」
(お金が関わると男は皆同じよ、といった意味でしょうか。)

曲の中でこの言葉を歌うアナに対して、
ダニロ:Beyond the Andes it may perhaps be so.
(まあ、アンデスの向こうかどこかではそういうこともあるかもしれないけどね。)
アナ:It's human nature, wherever you may go.
(いいえ、どこに行っても同じ、男の人はそういうものなのよ。)
ダニロ:I swear, for my part, whatever I may do, you'll never hear me saying 'I love you'.
(どんなことがあっても、あなたは僕が「I love you」と言うのをきくことはないよ。)

すべての男が金持ちの女性に求婚すると思ったら大間違いだ、僕は金目当で近づいたりするものか、というわけでしょう。「I love you」なんて言わない、というのがハッピーエンドのワルツへの伏線となります。

もう一度アナが、All's one to all men where there's gold.
(お金が関わると男は皆同じよ。)と歌うと
ダニロ:In cave of jungle it may or may not be.
(まあ、ジャングルの洞穴ではそういうこともあるかもしれないし、ないかもしれないけどね。)
アナ:From Timbuctoo, round the world, believe you me!
(はるか遠くのティンブクトゥーでも、世界のどこでもそうよ!)
ダニロ:I swear, for my part, whatever I may do, you'll never hear me saying 'I love you.'
(他の何をしたって、あなたに「I love you」なんて言わないと誓うよ!)
アナ:One day I'll catch you saying 'I love you.'
(いつかあなたが「I love you」というのを私は聞くことになるわ。)
ダニロ:You'll never catch me saying 'I love you.'
(あなたは決して、僕が「I love you」というのを聞くことはないよ!)

最後の二つは一緒に歌います。2枚目の写真はこのシーンです。1枚目は掛け合いながら歌う場面から、3枚目はこの後の宣戦布告の場面からとりました。クリックで少し大きくなります。
TheMerryWidow24-1.jpgTheMerryWidow25-1.jpgTheMerryWidow26-1.jpg

このあたり、アナの方が一枚上手で意地の張り合いを楽しんでいるようです。ダニロはアナとの久しぶりの会話を喜んではいても、かなり本気で不機嫌になりつつあるという感じがします。そこがパリの夜を楽しむ遊び人をきどっていても、ダニロの純粋なところかもしれません。その純粋さがこの恋の駆け引きの物語に魅力を与えています。そしてジェレミーは、本当は一途なダニロを、なんと魅力的に演じていることでしょう!

このあと、アナは「戦線布告ね」と言い、わざと手袋を落とします。手袋(gautlet)落とすのは挑戦の印、これを拾うのは挑戦に応じる印だそうです。

ダニロ:Throwing down the gauntlet, Madame Glawari?
(私に挑戦するというわけですね、グラヴァリ夫人。)

といいながら手袋を拾いますが、ジェレミーのその仕草もとてもきれいです。足を少し折って手を下にのばす、その手と足だけのシーンでも、きれいだなあ、とみとれてしまいます。そして二人は右と左へ別れて行きます。

次回はダニロとツェータ男爵のやりとりを紹介する予定です。

RM
今日は自分を元気づけるためにも、ジェレミーの笑い声と笑顔を紹介したくなりました。

ジェレミーは複雑な性格の役どころが多くて(そしてそれは、望むところでもあったはずですが)、無防備に無邪気に笑っているところというのは、演じている役の中ではあまりみられないような気がします。特にある年齢以降は。もちろんホームズでも時々とても魅力的な笑顔を見ることができますが、やはり無邪気に笑うというのとは少し違います。でも、BBCラジオの1989年のインタビュー番組で、まるで5歳の男の子のように本当に無防備に笑っている声をきいて、ハンサムさんがラジオでそんな笑い方していいの?と言いながら一緒に笑い出しそうになりました。ジェレミーが笑うとまわりの人にうつって皆が笑い出す、とEdward Hardwickeも言っていましたが、この笑いもそうだなあと思いました。YouTubeにあるテレビインタビューでは、また違った、でもやはりこちらも笑い出してしまいそうな、素敵な笑いをきくことができます。大きな声で快活に笑っています。

BBCラジオのインタビューの音声は今はきけなくなってしまったようなので、笑い声を含む部分をご紹介します。
インタビューより(mp3, 42秒)

出演作品の中で、数少ない無邪気な笑顔として思い浮かぶのは、The Prodigal Daughter (1975) の1シーンです。この作品についてはりえさんがブログで紹介してくださいました。最近お邪魔しているmixiの「シャーロック・ホームズの世界」のジェレミーに関するスレッドに、このシーンから3枚を投稿したのですが、みればみるほど幸せな気持ちになるので、あちらに投稿した1枚と別の2枚をこちらに載せたくなりました。あちらでは内容にはふれませんでしたので、少しお話します。

これは若いカップルの相談にのってあげているシーンです。そして誠実に一生懸命アドバイスをした結果、若い彼らが提案に同意してくれて、しかもその同意のしかたがおかしかったので、うれしそうに楽しそうに笑っています。
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ジェレミーはグラナダ・スタジオのスタッフや、レストランのウェイターやウェトレスと、個人的なことも含めていろいろとよく話をしていた、ということを、多くの記事で読むことができます。ミッドランドホテルの元ウェイターの話は以前こちらで紹介しました。David Stuart Daviesは著書Dancing in the Moonlightの中で、ジェレミーは誰かを助けているとき、誰かの役にたっているときが一番幸せそうだった、病気の人に花を贈るとき、誰かを励まし元気になるようにとおしゃべりしに行くとき、相談にのってアドバイスをしてあげるとき。そしてその相手が共演しているスターであろうと下っ端の技術職のスタッフであろうと、と書いています。

プロデューサーのMichael Coxは、ジェレミーの追悼号となってしまったSherlock Holmes Gazetteの13号で、ジェレミーはグラナダ・スタジオのスタッフの全員のことをよく知っていた、と書いています。全員の名前を知っているだけでなく、誰の車が車上荒らしにあったか、誰の赤ちゃんの具合が悪いかも知っていた。それはお座なりにたずねたのでなく、本当に心からスタッフのことを知りたいと思っていたのだ、と。だからこのシーンをみると、私はいつも、実際のジェレミーもこんなふうにいろいろな人と話をして、相談にのってあげていたのだろうなあと思って、うれしくなります。

少し元気がないとき、この笑顔を思い出すと元気になれると思いませんか?

RM
オペレッタThe Merry Widowを紹介する三回目です。ジェレミーのシーンを中心にしてお話を追っていて、いよいよジェレミー演じるダニロと、大富豪の未亡人アナが再会するシーン、Part 3の20秒くらいからです。控えの間で酔って寝ているダニロの声をききつけて、何かしら?とアナが部屋に入って行き、思わず「ダニロ!」とクリスチャンネーム(ファーストネーム)で呼び、ダニロも起き上がって「アナ!」と答えます。これ以降のシーンでは時によって、ダニロは思わず「アナ」と呼んだり、他人行儀に「マダム」と呼んだりしています。

これからは、二人はまだお互いに好きなのに意地をはっているのではないかしら、と思わせるような台詞のやりとりがはじまります。このやりとりの中で、二人の結婚は主に身分の違いによってダニロの伯父に反対されたこと、アナの父は当時多くの借金を負っていたことががわかります。アナはダニロとの結婚をあきらめ銀行家と結婚し、今は大金持ちの未亡人です。アナは「私は大金持ちになったのだから、今ならあなたの貴族の伯父さまは、大切な甥っ子が私と結婚しても、全然反対しないでしょうね」と皮肉を言います。アナは、お金持ちになった私に、今ならあなたは結婚を申し込めるでしょう?と言いたいのでしょう。ここから次の歌に入ります。

このシーンのジェレミー、なんともチャーミングです。再会がうれしくて、でもそれを隠して軽口をたたくところも意地をはって皮肉を言うところも、アナの言葉にたじたじとなるところもちょっとむっとするところも。

「アナ!... 失礼、マダム。あなたをクリスチャンネームで呼んで申し訳ない。僕にはもうそんな権利は残されていないのに。でもあなたが望むなら、どうぞ僕のことは昔同様ダニロと呼んでください(Anna! ... A thousand pardons, madam, for addressing you by your Christian name, I realise that privilege is no longer mine. All the same, if you wish, you may still call me Danilo.) 」といいながら、カチッと靴をならすところ。

「じゃああなたはもう一回結婚するつもり?」と言ったり、顔をアナに近づけながら「僕があなたのそばにずっといたら、あなたは今は亡きグラヴァリ氏の未亡人でなく、幸せなダニロの妻だったはずなのにね(If I had remained in your life, you would not be the widow of the late Monsieur Glawari. You would be the spouse of a blissful Danilo.)」と言ったりしますが、アナに反撃されてちょっとたじたじと顔を遠ざけるところなど。

このあたり、画質は良くないのですが、ジェレミーの表情がどんどんかわるのがわかります。クリスチャンネームで呼ばれて内心喜び、その勢いで軽口をたたいて、そのあとむっとして、そのあとの意地の張り合いの表情。顔をアナに近づけるところでは、空き家の怪事件で、ホームズが気絶したワトスンをのぞきこむようにしているところを思い出しました。表情は違いますけれども。下の写真はクリックで少しだけ大きくなります。酔って寝ていたので、襟元が少し乱れています。

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次回のご紹介は、このシーンの後の、CDには収録されていない歌の部分を予定しています。

RM
1989年におこなわれ、2002年に「Scrawl」という雑誌に載ったインタビューを紹介する2回目です。ジェレミーのインタビューを読むのは、かわらぬ楽しみです。いろいろな面を知る事ができます。

「(ホームズ以外であなたの意欲をそそる役があるとしたらなんでしょう?)リア王を演じようと決めているんです、世界中で一番重いコーディーリアと一緒にね!普通はコーディーリアのなきがらを抱いてあらわれさまよう場面のために、一番軽い女優を選ぶのだけれども。とても大柄なコーディーリアを選んで、そして僕はウェイト・リフティングで体を鍛えます。さらに彼女をワイヤでつっておいて、観客をびっくりさせますよ。

「(あなたはホームズを演じ続けるおつもりなんですね、全部をテレビか映画で演じるまで。)これから何が起こるかわからないから素晴らしいんです。自分で自分に役を当てることはできないんですよ。他の人が思いもよらない違った角度からみるんです。ホームズを演じるようにと言われたとき、驚きました。僕の鼻はそんなに大きくないのに、なぜ僕なんだろう?って。だから僕は次もびっくりさせられるのを楽しみにしているんです。

「映画についてはいろいろと言われますけれども、僕は1時間という枠の方がよいと感じています。Jack Nicholsonがモリアーティを演じることに興味を持っているときいています。彼はモリアーティの額(ひたい)を持っていますよ!彼は僕の好きな俳優の一人です。

「(シャーロック以外で、あなたにとって重要なことは何ですか?何があなたを怒らせますか?)私たち皆が怒っていることがありますね。怒り続けていたら、怒りで死んでしまうほどです。かばんをゆらしながら戦車の前を逃げる少年のことが脳裏を離れません。ベイルートは失われつつあります。どうやって怒りを持ちながら暮らしていけばよいのでしょう。世界のことを気にかけているとして、ではどうしたらよいのでしょう?

「こういうことを話すのはある意味では危険なのです。軽々しくきこえますから。でも軽々しいことではないのです!とても重要なことなのです。

「つばめのように空中の一点でホバリングする時間は今の時代はゆるされないのです。ただ忙しく、忙しく、忙しくしていなければならない。たちどまって問題をよく考える時間がない。

「皆はすぐに『どうするつもり?』と尋ねます。何か落書きでもしながら、次にどうしたらいいかがわかるまで待つ、ということはできないのです。

「義理の息子のケィレブが『僕は今やっていることに興味がもてないんだ』と大学で3つ目の専攻分野を勉強している時に言ったのですが、僕はこう尋ねてしまいました。『じゃあ、これからどうするつもり?』彼は言いました。『僕のやりたいことが僕の運命と交差したら、僕にもやりたいことがわかるだろうね。』幸いなことに彼はやりたいことをみつけたのですよ!

「僕は恵まれていました。自分で選んだ職業でずっと働き続けることができました。そのことをとても有難く素晴らしいことだと思っています。」


ジェレミー・ブレットは10年間のホームズの演技を頂点とする輝かしい成功の後、1995年9月、眠りの内に亡くなった。 彼の最後の放送は躁鬱病協会のための援助をつのるラジオ番組で、その中で彼は気分の激しい変化にどのように苦しみ、どのように対処してきたかを語った。

出典:Scrawl, 2002年

RM
1989年におこなわれ、2002年に「Scrawl」という雑誌に載ったインタビューを2回に分けて紹介します。
http://homepage.virgin.net/questing.beast/scrawl_pdfs1.htmの「Scrawl 2002」の下、「Jeremy Brett」の文字のある項目中の「download as PDF (98kb)」クリックすると、pdfファイルのダウンロードがはじまります。

これはインタビューから13年後、ジェレミーが亡くなった後にはじめて活字になったものです。以前紹介したハワイでのジェレミーを書いた文章も25年以上前の思い出を文字にしたもので、マーカスも22年たって写真集を出版して思い出を記しましたが、ジェレミーと会った人が忘れられない強い印象を持ち続けていることに、ここでもこころを打たれます。内容もとてもよいもので、The Secret of Sherlock Holmesが友情の物語であるという理解、世界情勢にもこころを痛めていたこと、義理の息子への愛情と理解などがうかがえます。ユーモアをまじえてこれから演じたい役について語るところもあります。一部を翻訳して引用します。インタビューアの前書きからはじまります。


1989年の終わり近くにジェレミー・ブレットと会って話したことを、私は今でもはっきりと覚えていて、喜びとともに思い出す。そのインタビューはある雑誌のためにおこなわれたものだったが、編集者と出版社の人間が、音楽チャートにのりはじめた、とあるデュオのほうが若者に受けがよいと考えたために、結局雑誌には掲載されなかった。それから10年以上がたって、そのデュオも雑誌も今はなく、ジェレミー・ブレットも悲しいことに亡くなってしまった。だが別の言い方をすれば、そのデュオも雑誌も今はないけれども、ジェレミー・ブレットは今でもその名前をよく知られていて永遠に生き続けている。特に、今までもこれからも最高であろうシャーロック・ホームズを演じたことによって。そして世界中にいるたくさんのファンに愛されている。

「私たちはいま世紀末にあって、富める者はさらに持つようになり、貧しい者は永遠にかえりみられない。」

ジェレミー・ブレットは、今出演している劇「The Secret of Sherlock Holmes」中のホームズの台詞から引用した。

「僕はホームズの頃にもどりたいとは思いません。多くの人々がどんなに貧しかったかを僕たちは本当には知りませんから。そして今は男女が友達になれますが、その頃はお互いを理想化して祭り上げて、男はクラブへ行き、女は家でお茶を飲むしかなかったのです。今はその頃とは違っていて、僕は今の方がずっと好きです。もっとも今は男性どうしの友情が難しくなってしまった。紳士が通うクラブは今や最後の砦で、女性はそこで何がおきているかがわからないので、砦を攻め落としたいと思っているんですよ。

「男性が腕を組んで歩いてくるのを見ると妙な気持ちがするようになった。ホームズとワトスンはそうしていたものです。親子が道を横切るときのようにね。この芝居の意味は、最も純粋で素朴な友情をみることができる点だと思います。これは二人の男の劇なんですよ。二人とも孤独で、一人は天才、一人は立派な市民です。彼らの友情は澄み切った水のように純粋です。そして昔風のこと、つまり尊敬、信頼、思いやり、よいマナー、そういった多くのことがその頃は大切にされていました。

「(演じる役が固定されてしまうのは怖くないですか?)演じる役のイメージに固められてしまうことを恐れていたら何も演じられないですよ。僕は今までハムレットやマキシム・ド・ウィンター(「レベッカ」の主人公)の役に固められたとも言えるけれども、次はドクター・フー(SFテレビドラマの主人公)を演じるように言われて、ドクター・フーの役柄に固められるかもしれない!幸いなことに、僕とホームズはもののみかたが違っている。でももしもホームズを演じることで型にはめられるとしても、天才の型にはめられるなんて素敵だから、気にしませんよ!

「(実際にはどんな役を一番演じたいですか?)今演じているこれをきちんと演じたいんです!これは生涯をかけて追い求めるものです。ハムレットを演じることと同じようにね。決してこれで充分と言えるようにはならないのです。

「劇場で演じることで、子供たちがホームズを崇拝していることに気づきました。ホームズは『地上のスーパーマン』なのです。バットマンもコロンボも、ホームズからはじまっていると思います。現在の物語で、ホームズ、そしてワトスンの影響をうけていないものはとても少ないと思っています。

「ホームズは孤独癖のある男なので、演じるのは難しいのです。カメラや観客に、彼があまり表に出そうとしないことをどうやったらみせられるでしょう。彼が天才であること、拳闘と剣の名手であること。整理整頓がなってない、パイプとたばこを吸う、コカインとモルヒネも。そして彼はコメディアンでもあるのですよ!僕はいつも彼の中に新しいことをみつけています。あらゆる種類の、彼独特の性質をね。」

"And he's such a comedian!"と言う時のジェレミーの声の調子を想像できる気がします。
次回へ続きます。

RM
先月29日に、テーマ曲をはじめとしてグラナダシリーズのすべての音楽を担当した作曲家、パトリック・ゴワーズが署名をしてくださいました。ロンドンにお住まいのようです。調べたらジェレミーより3歳年下でした。こうしてジェレミーと一緒に仕事をしたかたが、次々と署名してくださるのを見ることができて、あたたかい気持ちになります。コメントにも「私はすべての音楽を担当したので、ジェレミーの演技に深く関わりを持っていた。ジェレミーのすばらしい才能を賞賛する」と書いてくださっています。

このような情報は事務局の掲示板で読むことができます(ソーシャル・ネットワーキング・サービスであるFacebookの中にあります)。アドレスはhttp://www.facebook.com/bafta4jbです。たとえば、本のサイン会で署名を集めることや、劇場やミッドランドホテルに署名お願いの文書を持っていった時のことなども、ここで知りました。

また、署名場所にある署名簿でも、世界中の国のたくさんの人が署名しているのを実感することができます。

名前が出るのがおいやでしたら、オンライン上では匿名、ということも可能です。ジェレミーにBAFTA賞を!(10); 署名方法に書いています。

RM

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Author: RM
コメントは承認後に公開されます。古い記事へのコメントも大歓迎です。2010年8月7日に始めました。
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和訳には間違いがあるかもしれません。最近は必ず英語原文を併記・またはアドレスを書いて読めるようにしていますので、どうぞそちらも参考になさってください。

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