Jeremy のことが知りたくて ~ ジェレミー・ブレット(Jeremy Brett)を愛するかたへ

英グラナダ・テレビでシャーロック・ホームズを演じた俳優の人生を言祝いで

プロモーション・ツアーでアメリカをまわっていた時に収録されたラジオ番組から、Joanのことを話している箇所を中心にご紹介してきました。このあと、ジェレミーは当時の世界情勢にふれ、最後に自分で5曲目を紹介し、別れを告げます。

これを最初にきいたとき、ラジオ番組で俳優が世界情勢にふれる、というのは日本ではあまり考えられないので、少し驚きました。そのあといろいろなインタビューや記事を読んで、ジェレミーが世界の政治情勢や世界平和を含めて、いろいろなことに興味を持っている、視野の広い人であることがわかってきました。たとえば以前ご紹介した「Scrawl」のインタビューでも世界情勢にふれています。

今回、「ジェレミーの悲しみと、あたたかさ」というタイトルで、2つのインタビューを紹介してきました。ジェレミーは悲しみを経験することで、より強くよりあたたかく生きた人だと思います。その一方で、ジェレミーはとても多面的な人で、ある面だけを強調しすぎると他の面が目に入らなくなってもったいない、と感じたりもしています。たとえばとても子供っぽくてかわいらしい面もあって、ジェレミーのcuddlyなところが好きだ、という人がいました。この言葉もはじめて知ったのですが、「抱きしめたくなるような」という意味だそうです。ジェレミーのことを知れば知るほどその魅力を感じます。

でも日本にたくさんの悲しみが生まれた今、ジェレミーのある面をご紹介したいという気持ちが生まれて、何回かにわたって書きました。もう少し続けるつもりでしたが、3月くらいから私の中に生まれたさびしさが、少しずつ育ってきているようです。数日前から、ここをお休みすることを考えていました。無理をしないようにして、しばらく書く事をやめます。定期的に見に来てくださる方を、お一人知っています。また、mixiで励ましてくださった方がお一人いらっしゃいました。コメントを下さった方、拍手を下さった方、以前メールでお話ししたことのある方にもご心配をおかけしないように、お休みのご挨拶を書きました。そんなに長くお休みすることなく、また書きたくなるかもしれません。それではその時まで。

RM
昨日、田中好子さんの訃報に接しました。私は4日前と2日前に、イギリスのジェレミーファンと夏目雅子さんのことをジャーナル(ブログ)のコメント欄で話していました。子供の頃にイギリスのBBCで放映された西遊記をみていたそうです。私が夏目雅子さんのことを思い出したのが10年ぶりくらいなら、夏目雅子さんの義姉の田中好子さんのことを思ったのもしばらくぶりでした。田中好子さんが夏目さんのことを静かに話している映像を思い出していました。それから2日しての訃報に、こころの中で動くものがあります。

ジェレミーが縁で、生まれてはじめて英語でのやりとりの中で、言葉をこえて通じあうものを感じている人達、その中の一人で、自分は仏教徒だと言っている彼女との会話がもとで思い出していた夏目雅子さんと田中好子さん。俳優という仕事を愛しながらこの世を去った3人の人、夏目さん、田中さん、そしてジェレミー。人はこの世を去っても、作品は残り思い出は残り、そしてそれ以上に何かがが残ること。

ジェレミーはいつも私に、生きることと死ぬことについて感じさせてくれる人です。

RM
前回の続きではなく、今日は短い記事になってしまいますが、写真をご紹介します。Jeremy Brett InformationのウェブサイトをつくっているRebeccaが、For fans of Jeremy Brettというファン・フォーラムでこの4月2日に紹介した写真です。少し小さくしてのせます。ファン・フォーラムの場所はこちらです。
http://jeremybrett.livejournal.com/292880.html


「今日、flickr(オンラインの写真共有サービス)で、この写真をみつけました。お店のウィンドウの写真です。ウィンドウには、ホームズを演じているジェレミーの写真がサインして置いてあります。何と書いてあるのか正確には読めないのですが、Smiths Snuff Shopと書いてあるのでしょうか?これは、LondonのCharing Cross Roadの74番地にある、Leicester Squareの近くのSmith & Sonsという煙草商のウィンドウです。ジェレミーはこのお店の常連だったのでしょうか?」

この後、ジェレミーの写真の部分だけをRebeccaは取り出しています。そして元々のflickrのサイトへのリンクがあって、そちらにはもっと大きな写真があります。

お店の人はジェレミーのファンなのでしょうね。このお店には今もジェレミーの写真が飾ってあるのでしょうか。誰かお店にいってみて話をきかなくちゃね、というコメントが書かれています。

私は、ロンドンにジェレミーの写真がこのように飾ってある煙草屋があるのを思い描いています。ジェレミーのこの写真ははじめてみました。Rebeccaもはじめてだそうです。雰囲気のある良い写真だと思います。このようにして今も新しい発見があって、ジェレミーを愛する人たちが一緒に楽しむことができるのはうれしいことだと思います。

ウェブで調べたら、「Smith's Snuff Shop」というお店の名前がみつかり、住所もRebeccaが書いたとおりです。Smith & Sonsというのが正式な名前、Smith's Snuff Shopが通り名なのかもしれません。Snuffは嗅ぎ煙草のことだそうです。

RM
フォーレのレクイエムから「楽園にて」という美しい曲を、ジェレミーが今は亡きお母様とJoanに捧げたところを前回ご紹介しました。このラジオインタビュー「Desert Island Discs (1991)」 は、ウェブサイト「Jeremy Brett Information」で聴くことができます。くわしくは前回の記事をご覧下さい

この曲が終わった後、司会者がジェレミーにこう言います。最初は、レクイエムの歌詞からの引用です。

(「天使が楽園であなたを迎え入れてくれますように。」ジェレミー、今、あなたのお子さんたちの写真をみせていただいていますが、これからお子さん達にお会いになるのですよね。)

そうです。これからボストンへ行って、James(ジェームズ), Deanna(ディアナ)、Christine(クリスティーン)にも会うのです。僕の可愛い孫達です。そしてEsther(エスター)にも会います。エスターは今でも自転車に乗っているんですよ、家の中でね。彼女は90歳、義理の母です。だからとても楽しくすごせると思います。とても幸せにすごせるでしょう。来週末です。


ジェレミーがみせた写真には、お孫さん達もうつっていたのでしょうか。ジェレミーが3人の孫の名前をあげるとき、その声はいとしげであると同時に、なにかあふれてくる感情をおさえているように、私にはきこえます。お母様とJoanに捧げた曲が終わったあと、Joanが遺した子供達の写真をみて、Joanがこの世にいた時のことを思い出していたのではないでしょうか。その後、義理のお母様のことを話すところは、とてもやさしい口調です。


それからクリーブランドとシカゴへ行きます。今回僕はとても素晴らしい旅行をしています。これはもちろん、公共放送を宣伝するための旅です。(ちょっと質問してもいいですか?)

そして司会者は、アメリカ人がイギリスにとてもあこがれているのに驚いていますか、それとも当然だと思っていますか?とたずねています。これに対して、ジェレミーは多分とてもウィットに富んだ答えをして、司会者は大笑いに笑っているのですが、ここが私にはよく理解できません。アトランタへ行ったときに、ジョージア出身の人に話をききたかったけれども、たずねた一人はエチオピア出身、一人はイギリスのウェールズ出身だった、ジョージア出身の人に会うのはあきらめなければならないのか、と思った、ということのようです。出身国の違いはもちろんあるけれども、今は皆が出身をこえてまざりあって生活していて、それは好ましいことだ、という気持ちからの答えだったと想像しています。実際ジェレミーはアメリカ人のJoanと結婚して、一時は生活の拠点をアメリカにうつしていますから。そしてジェレミーはヨーロッパの多くの国や、南アメリカやオーストラリアにも行っていますから。

この後ジェレミーは話をもとにもどします。先ほど「これは公共放送のための旅です」と話し始めた時には、これは Joanのための旅であること、そしてこれから話すことへと続けるつもりでいたのでしょう。


僕が伝えたいと思っている本当に大切なことは、これから話すことです。

人生で大切な人を失ったとき、たやすくすぐに回復できるとは決して思わないでください。
あなたが思っているよりもずっと多くの時間を、自分に与えてください。
2年3年たって急に涙があふれてきても、決して驚かないでください。
男の人でも涙が頬をつたって流れるのです。
思いもよらない場所で、たとえばエレベーターの中や運転している車の中で突然涙があふれるのです。
あなたが思っているよりもずっと時間がかかることを、どうぞ覚えていてください。


ジェレミーは少しゆっくりした口調で、文と文の間で少し間をおきながら話しています。悲しみを経験した人に、このことをどうしても伝えたかったのだと思います。きいている人にも、そして自分自身にも話しかけるような口調です。男でも泣くのです、と言いながら、ジェレミーは静かな声で、以前の自分を思い出して話しているように思えます。ここをきくとき、私はいつもジェレミーが悲しみとともに生きてきたことを思い、愛する人を失ったひとを少しでもなぐさめたいという、こころの底からの気持ちを感じます。

RM
1991年にアメリカで収録されたラジオ番組 Desert Island Discsのご紹介を続けます。この番組では、無人島に行く時に持っていく5枚のレコードの曲をかけながら、ゲストが司会者と話をします。ジェレミーは前回の部分では、最後にJoanと踊ったときのことを話して、そしてJoanが遺した二人の子供の名前をあげます。その次からご紹介します。

(司会者が「それではフォーレのレクイエムからイン・パラディスム(In Paradisum; 楽園にて)を聴きましょうか... 。」)そうですね、僕がお話ししましょう。ロンドンで「Man of Action」という番組に出演した時、多分1977年かもう少し前だったかもしれませんが、そのときにこの曲を交通事故で亡くなった母に捧げました。ですから... 今日はこの曲を二人に捧げます。

ジェレミーのお母様は1959年に亡くなりました。「ですから(So...)」という声が小さく震え、ジェレミーは長い沈黙をはさんで、二人にこの曲を捧げる、と言っています。フォーレが作曲したレクイエム(鎮魂歌)から、美しいオルガンとソプラノの曲が流れます。

長いあいだ聴くことができなかったこの番組の音声が、昨日Jeremy Brett Informationにアップロードされました。以前のウェブサイト、The Jeremy Brett Archiveにこの音声があった時は、音楽はすべて省かれていたのですが、今回はこのフォーレのレクイエムのイン・パラディスムだけは全曲含まれています。この曲はジェレミーにとっておそらく心の深いところから来る思い出をともなった大切な曲なのでしょう。ですからこの曲も含めてこのインタビューをきくことができて、ジェレミーの想いをより深く感じることができるように思いました。ジェレミーはこの曲に関しては演奏者や歌手に言及していませんが、5曲の内の3曲では歌っている歌手を特定して話しています。ですからこの番組でかかった5枚のレコードは、録音自体も実際にジェレミーがよくきいていたものなのではないかと思います。

場所はまだ変わる可能性がありますが、今現在はここ(http://jeremybrett.info/archive.html)にあります。右の段の下から2番目、「Desert Island Discs」と書かれた箇所のListenを押すと音声が流れます。また、このページ(http://jeremybrett.info/media.html)からは右クリックでダウンロードができます。但し書きとして、英米の法律で認められる公正な利用(フェアユース)によって、著作権を持たない著作物をこのウェブサイトで使用するが、読者はこれを営利目的では使用しないように、と書かれていますので、どうぞ守ってください。

Joanの話はこのファイルの19分くらいから、フォーレのレクイエムのイン・パラディスムはおよそ24分30秒後からはじまります。

今日は短いですがここまでで、次回はこの曲が終わったところからご紹介いたします。

RM
ラジオ番組 Desert Island Discsで、ジェレミーが最愛の奥様Joanの話をしている部分をご紹介しています。今回は、ホームズを演じるようになってからの話です。

そしてそれから重大な転機が訪れたのです。僕はシャーロックを演じることになりました。それはイギリスの北部のホテルにずっと泊まりっきりになることを意味していました。そして僕たちに残された時間が少ないことを、その時は知りませんでした。1985年7月4日に彼女の命が終わることをその時は知らなかったのです。僕たちは庭をつくろうとしていました。子供を授かるのには遅かったので、すばらしい庭をつくろうとしていたのです。(どこにですか?)まだ決めていませんでした。庭作りに良い気候の場所をさがしていたのです。僕はLos Angeles(ロサンジェルス)を考えていました。僕たちはもちろんWisconsin(ウィスコンシン)はどうだろうかと話していました。Warwickshire(ウォリクシャー)も考えていました。すごく大きな庭園にしようとしていたのです。

ジェレミーはホームズの撮影期間はマンチェスターのミッドランド・ホテルにずっと泊まることになりました。ですからJoanに会う機会もそれまでよりもはるかに限られていたのでしょう。

庭園をつくることを考えていた場所のうち、ロサンジェルスはジェレミーがアメリカを拠点として仕事していたころの家があった場所、ウィスコンシンはJoanの生まれた場所、ウォリクシャーはジェレミーが生まれたところです。大きな庭園、と言いながら楽しそうに笑っています。


そして突然、彼女は僕の元から奪い去られたのです。(何がおきたのですか?)それは...ガンでした。とても急でした。ひどい衝撃で、そして僕は二人で最後に踊ったときのことをよく覚えています。ロックフェラーセンターの最上階のRainbow Roomでした。美しい桜の季節で、僕はブロードウェイでの "Aren't We All?" の芝居で、いわば美しい桜のような成功の中にいました。彼女は銀色の服を着て、たとえようもなく美しく、繊細ではかなげでした。そして...そこで最後のダンスを踊って...そして僕は彼女を失ったのでした。

でも僕には彼女が遺してくれたすばらしい二人の子供がいます。Caleb(ケイレブ)とRebekah(レベッカ)、そして最初の結婚の時に生まれた息子がいます。ですから泣きません。でも彼女の生命の輝きは戻ってこないのです。


Joanがガンのためにとても心配な状態であることをジェレミーが知ったのは、「最後の事件」のロケ地のスイスに滞在していたときだったそうです。(The Morning Call, Nov 10, 1991)撮影終了のお別れパーティのために風船をふくらませながら、ジェレミーはJoanのことを心配していた、という記述がBending the Willowにあります。

そしてJoanが亡くなったのは "Aren't We All?" の上演中でした。ジェレミーは "Aren't We All?"を最後までつとめて、アメリカをはなれ、ロンドンにもどりました。Joanが亡くなった後もこの喜劇に出続けたジェレミーは、どんな気持ちだったろうと思います。どうやって演じたか何も覚えていない、と言っているのを読んだ記憶があります。からだとこころと魂が分離したような状態だったのではないかと思って、胸が痛みます。

CalebとRebekahはJoanの以前の結婚で生まれた子供達ですが、ジェレミーは自分の子供としてとても愛していました。子供が3人、といつも言っています。

Joanと踊った最後の時のことを話すあいだ、ジェレミーはその時を思い出すように悲しげで、時に途切れがちに時に少しささやくような声になります。そしてJoanが遺した二人のことを話しはじめるとき、声が少しふるえています。

泣きません( No tears. 涙はなしです)、とジェレミーは言っていますが、その後これからご紹介するところでは、悲しむために十分な時間を自分に与えてください、急に涙が出ても驚かないでください、と、大切な人を亡くした人にむかって話しかけています。そしてこの収録が終わったあと、ジェレミーはJoanを失った悲しみにおそわれて、悲嘆の内にスタジオを後にしたことを知っています。

RM


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前回の記事に拍手を下さった方、どうもありがとうございました。こころがほんわりとあたたかくなりました。

何かつながりを感じたくて、たまらなくなったのです。それで拍手ポタンをつけてみたのでした。やさしく励ましていただいた気持ちです。ありがとうございました。
ラジオ番組 Desert Island Discsから、奥様Joanの話をしている部分をご紹介する2回目です。司会者にJoanの職業をきかれて、「彼女は『Mystery!』をつくったんです。」とうれしそうに答えて、司会者がびっくりするところまで前回はご紹介しました。

彼女はウィスコンシン生まれで(北米先住民の)チェロキー族の血をひいていて、直感がとても鋭く、そしてもちろんとても美しいのです。妻はWGBH(ボストンにある、公共放送サービスPBSに属する放送局の一つ)で働いて、「Mystery!」、「Classic Theatre」、「Piccadilly Circus」をプロデューサーとしてつくり、「Masterpiece Theatre」のプロデューサーを18年間つとめました。アメリカとイギリスの間に美しく繊細な橋をかけたのです。妻がなしとげたことは、多分彼女でなければできなかったでしょう。(司会者:「美しく繊細で、そして輝くような橋をかけたのですね。」)そのとおりです。彼女のことをとても誇りに思っているので、いくらでも自慢ができます。私たちはとても美しい家に住んでいました。彼女はたくさんの人に電話をして会って、John MortimerやJohn Hawkesworth と知り合いました。そのうちに彼らは電話で彼女のアドバイスを仰がないことには、ほとんど何もできなくなったんですよ。(司会者が笑う。)Jeremy Isaacsも、それからテレビ局のトップも皆、彼女に心酔していました。「今夜外で食事をしない?」と僕が言うと彼女は「ごめんなさい。今から手紙を2通出さなくてはならないの。」お偉方2人のためにスピーチ原稿を書いて届けたのです。でも彼女はdyslexia(難読症)だったんですよ!まあとにかく、僕たちは遅いディナーをとりました。そして僕らは結婚することになったのです。(「アメリカに住んだのですか、それともイギリスですか?」)両方です!

Joanの写真はあまり多くを見ることができないのですが、Jeremy Brett Informationに数枚あります。
http://www.jeremybrett.info/jb_joan.html
この前ご紹介した、ウェブ上でJoanに花を手向けることができるサイトにある写真も好きです。
http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GRid=6839525

Joanは直感にすぐれていた、というのはジェレミーと共通するところのように感じます。また、彼女を紹介する新聞記事で、以前は女優だったと書かれているものがありました。下で紹介するPBSのサイトでも、JoanのWGBHでの最初の仕事はラジオドラマのプロジェクトで、そのディレクターもつとめ、演じもした、と書いてあります。彼女が仕事の面でもジェレミーの良き理解者であったのは、番組の作り手としての豊富な経験と、女優としての経験と、その両方があったからなのではないでしょうか。

「Mystery!」はアメリカでホームズを放送した番組で、Joanが初代のプロデューサーです。「Classic Theatre」は前回ご紹介したように二人の出会いをもたらした番組、「Piccadilly Circus」もまたJoanがプロデューサーとして作った1976年の番組で、イギリスのコメディやドラマなどを紹介するものでした。そしてジェレミーはこの番組のホストをつとめました。おそらくこの番組の制作を通して二人はお互いをよく知り、愛し合うようになって結婚することになったのでしょう。結婚の年に関しては先日もふれましたが、1976年、1977年、1978年と、記事や本やインタビューによって違っています。(PBSのウェブサイトの、Joanの紹介文では1977年となっています。これが正式な結婚の年だと私は思っています。
http://www.pbs.org/wgbh/masterpiece/about/hosts.html

これからご紹介するのはどちらも「Piccadilly Circus」の宣伝用写真です。同じ服装と帽子ですから、同じときに撮られたものでしょう。1枚目は笑顔をみていると幸せになりますし、帽子を持つ手の指がとてもきれいです。2枚目は少し上を仰ぎ見ている表情が素敵です。どこからもらってきたか忘れてしまったので、もとのサイトの場所を書くことができませんが、多分 For fans of Jeremy Brett からで、1枚目は同じものがAmazon.comにもあります。ただし今は購入はできません。
http://www.amazon.com/dp/B000RHBQNG/
2枚の写真はクリックで大きくなります。
PiccadillyCircus4.jpg
Piccadilly Circus3

「Masterpiece Theatre」は1971年にはじまった有名な長寿番組で、現在も「Masterpiece」の名で放送されています。PBSのウェブサイトでは現在の番組の紹介、この番組で放映されたドラマのリストや歴代のホストとプロデューサーの紹介などを読むことができます。
http://www.pbs.org/wgbh/masterpiece/index.html
Joanは1973年から亡くなるまで、この番組のエグゼクティブ・プロデューサーをつとめ、その間にこの番組は多くの賞を受賞しました。ジェレミーが主演したThe Good Soldier (1981) は、アメリカでは1982年に「Masterpiece Theatre」で放映されました。

こうしてJoanの業績を見ていくと、あらためて、彼女はなんと傑出した才能と感覚を持った名プロデューサーだったのだろう、と思います。

Joanが会っていた人として名前が出ている3人は、イギリスの有名な脚本家や劇作家やプロデューサーで、特にJohn Hawkesworthはグラナダ版ホームズのテレビ用構成を担当し、さらに「最後の事件」などの脚本も担当しています。Joanはイギリスのテレビ関係者を以前から多く知っていて、彼らの信頼を勝ち得ていたのですね。ジェレミーは本当に誇らしげに話しています。

dyslexia(難読症、失読症)については、ジェレミーも同じdyslexiaだったことをDavid Stuart DaviesがDancing in the Moonlightに書いています。ジェレミーが小さかったころ、文字を読むのが困難だったジェレミーのために、お母様が本を読んであげたそうです。私はここを読むと、お母様の腕に軽く寄りかかりながら本を一緒に読む小さいジェレミーをいつも想像します。この本のこの部分はりえさんがブログで翻訳して紹介してくださっています

この後ジェレミーは、ホームズを演じることになった時のことを話しています。次回ご紹介します。

RM
前回の続きを書く余裕がないので、ご紹介したいと思っていた1枚の写真について書きます。この写真をみつけたのはTumblrというサービスの中でした。Tumblrとは、ブログとSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)の機能をあわせ持つようなサービス、と自分で書いていてもよく理解していませんが、他人の投稿を自分のブログに再投稿する、Twitterのような機能を持つものらしいです。ですから、この写真もすでに30人くらいが自分のページに載せていました。

この写真が最近、Jeremy Brett Informationにも載りましたので、そちらにリンクをはります。大きな写真はそちらでご覧ください。
http://jeremybrett.info/images/luckyfan_jb_b.jpg
luckyfan_jb_s.jpg

とてもやさしい笑顔、彼女を軽く引き寄せている左手、台本の一部でしょうか、紙を手にした右手、そしてホームズのトップハットをかぶらせてもらって、幸せそうな女性の笑顔。とても好きな写真です。今は寂しさ悲しさを感じているので、二人のこの笑顔に救われます。

RM

 RM

Author: RM
コメントは承認後に公開されます。古い記事へのコメントも大歓迎です。2010年8月7日に始めました。
私の記事へのリンクはどうぞご自由になさって下さい。
和訳には間違いがあるかもしれません。最近は必ず英語原文を併記・またはアドレスを書いて読めるようにしていますので、どうぞそちらも参考になさってください。

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