Jeremy のことが知りたくて ~ ジェレミー・ブレット(Jeremy Brett)を愛するかたへ

英グラナダ・テレビでシャーロック・ホームズを演じた俳優の人生を言祝いで

前回、The Very Edge (1962) の写真をご紹介しましたが、それより少し後のジェレミーの写真を今回は載せましょう。eBayに舞台 The Deputyの写真のプリントが出品された時に、出品者が参考のためにアップロードした画像ファイルをいただきました。1964年2月から5月までの舞台ですからジェレミーは30歳ですが、髪を短くしているせいか、私にはもっとずっと若くみえます。

Deputy3.jpg

以下の記事に上の写真が使われています。AP通信社が配信した記事で、アメリカの多くの新聞に掲載されたようです。記事自体もとても興味深く、ジェレミーへのインタビューとしては、かなりはやい時期のものの一つです。いつかこの内容の一部も、訳してご紹介しようと思っています。
http://news.google.com/newspapers?id=brBTAAAAIBAJ&pg=4576,3028325

この作品については、Dancing in the Moonlightの本の中でこの舞台について書かれている部分を、りえさんが以前紹介して下さいました。
http://blog.goo.ne.jp/rie_002/e/582703aa73cbebb1ac1f14661e6ffd92

りえさんが書いてくださったことの繰り返しになりますが、簡単に書きます。ジェレミーはイエズス会の司祭であるイタリア人のフォンタナ神父を演じました。ドイツでナチスのユダヤ人虐殺を目撃して、これを公にしてナチスを糾弾する声明を出すことをローマ法王に請願してかなわず、ユダヤ人の印を胸につけてドイツにもどり、ユダヤ人とともにアウシュビッツに送られる、という役です。

この写真は背景の鉄条網や、流れる血、カラーをはずした修道服に象徴されるように、強制収容所で多くの悲劇を見ている姿でしょう。目と表情がそれを語っています。

上のリンク先のAP配信のインタビューによれば、ジェレミーはこの役をはじめてから14ポンド(6.4キログラム)やせて、眠りも途切れがちになったそうです。「みんなから、役に対してもっと客観的になるようにとよく言われます」と言っていて、すでにこの頃からbecomerであったこと、そしてbecomerであるとは時にとても危険であることを感じさせます。

そして、この舞台に出たのは、インタビュー記事の言葉を引用すれば、「イライザに求愛するがかなわない、頭がからっぽの、めかしこんだしゃれ男を演じ終えたばかりの時」でした。その、My Fair Lady でフレディを演じた時の写真ものせましょう。Jeremy Brett Informationからいただきました。下のリンク先では、My Fair Ladyの写真をこれ以外にもたくさんみることができます。
http://jeremybrett.info/photos/MFL/

MFL4.jpeg

本当にいろいろな顔をみせてくれますね!

RM
文字が続きましたので、写真をご紹介したくなりました。映画の宣伝用スチルです。皆様のジェレミーのイメージとは少し違うのではないでしょうか?野生的と言いましょうか。(元はどこから頂いた写真か、忘れてしまいました。)

TheVeryEdge.jpeg


これもまた魅力的な写真だと思うのですが、実は作品としてはいわくがあるもので.... ジェレミーはいわゆるストーカーの役なのです。

でもこの映画のスチルには、これ以外にも好きなものが1、2枚あります。ですから、女の人をつけまわす役、というところは置いておいて、純粋に写真として楽しんでいます。ジェレミーはいろいろな表情をみせてくれますね。お坊ちゃん風のMy Fair Lady (1964) との落差ときたら!

そして、このところお父様のことを話題にしていますが、この映画についてもお父様にまつわるエピソードがあるのです。以下はジェレミーの言葉です。(もともとの出典はわかりません。"Dancing in the Moonlight" かと思っていたのですが、違うようです。なお、この発言を引用しているサイトは "A Dedication to Jeremy Brett" です。)


「1963年にイギリス映画 "The Very Edge"でストーカーを演じた時、黄色い目、緑色の顔のシーンがありました。父はその姿にショックを受けて言いました。『こんなひどい映画に出る時には、村では上映されないようにしてくれないか?』」

"I remember playing a sex maniac in a British film called The Very Edge back in 1963. I had yellow eyes and green skin. My appearance so shocked my father that he said to me, 'If you're going to do such terrible films, will you make sure they don't come to the village..?'"



(ジェレミーは1963年と言っていますが、実際には1962年公開のようです。)

これは白黒の映画だということもあって、"yellow eyes and green skin" のところが少し謎なのですが、女性からペンキを顔にあびせられるシーンがあり、そこのことだろうと思っています。(色を使った慣用句という可能性も考えたのですが、green-eyedはあっても、上記の表現はみつかりませんでした。)

このお父様の発言もとりようによっては、息子の仕事のことよりも体面を重んじる父、ということになるのかもしれませんが、私はそうは思いません。息子が悪い役を演じるところなんてみたくないし、人にもみせたくない。だから息子に直接文句を言う。そして多分、ジェレミーもそういう父のことをよくわかっていて、だからこういう話を半分おもしろく半分懐かしく、インタビューアに披露したのではないでしょうか。

この父親は、ジェレミーが語る父親は、演じるという仕事のことはあまりわかっていなくて、でも末の息子の成功と幸せを願って、時にぶつぶつ文句を言う父に思えます。そしてこの父と息子のつきあい方は、ジェレミーと息子のデイビッドや義理の息子のケイレブとのつきあい方とは多分ずいぶん違っていて、でもやはりいい親子だなあと思います。この数回の記事を書くうちに、私はジェレミーのお父様のことがすっかり好きになってしまいました。自分とはずいぶん違う資質を持った息子に戸惑うこともあったでしょう。まあ、ジェレミーのようなひとはそうはいないと思うので(うふふ)、当然かもしれませんが。でも、この並外れたところを持つ末の息子を、とても愛していたと思います。

また、妻であるジェレミーのお母様とも違う点が多くあったようで、似た者夫婦というわけではなかったようです。以前紹介した1973年のインタビューでジェレミーは、「全然違う二人の、普通なら考えられない結婚だったのです」と言っていますし、「母が交通事故で亡くなった後しばらくして父も亡くなりましたが、その間の父は最良の喧嘩相手 (best fighting partner) を失ってしまいました」と1985年のインタビューで話しています。このインタビューも興味深いのですが、またの機会にご紹介しましょう。

RM
今日はちょっと時間に余裕がないこともあって、前回ちらと触れた、Google Booksでみつけた文章からの引用を短くいたします。

場所はこちらです。
http://books.google.co.jp/books?id=KHsrAQAAIAAJ&q=john+huggins

The Baker Street Journal: an irregular quarterly of Sherlockiana, Volumes 45-46, 1995

部分的にしか読めないようになっているので、この項のタイトルも著者もわかりません。前回の記事で触れた追悼式でのことが書かれています。読めるのは32ページから33ページにかけてです。以下は33ページからの引用です。


(司式者である)ジェレミーの兄のJohn Huggins師が祝福と祈りの言葉を述べ、さらに、昔の思い出についても語った。ジェレミーはとても優秀な子供で、そして素晴らしい音楽の才能を持っていた。子供の頃のあだ名は「Little Bishop」 だった。後年、父が長わずらいの末に死をむかえるまでの間、ジェレミーが主に父の世話をした。

The blessing was given by Jeremy's elder brother, the Reverend John Huggins, who told us something of their family life together. As a youth, Jeremy was a brilliant scholar and musician - his childhood nickname was "the Little Bishop." In later years he had taken on the responsibility of nursing their father during his long final illness.



ジェレミーは識字障害(失読症、dyslexia)で、学業に関してはあまりふるわなかった、とどこかで言っていたと思います。 "Dancing in the Moonlight" にも書かれていました。でもお兄様は "a brilliant scholar"と言っていますね。学校の成績がどうだったかは別にして、元気で物怖じしない、利発な子供だったのだろうなあと思います。

"The Little Bishop" というあだ名については、以前に参加していたフォーラムでこの部分を引用した時に、これはどういう由来のあだ名だと思いますか?とメンバーに尋ねたことがあります。それへの答えは、

「まったくの想像に過ぎないですが、もしかしたらサープリス(聖職者や聖歌隊が着るそでの広い白い法衣)を家でも着たことがあったのかもしれないし、司祭任命式のまねごとをして、兄弟で遊んだことがあったのかもしれませんね。」

というものでした。"The Little Bishop"ときくと、英語話者なら誰にでもピンと来るイメージがあるのだろうか、と思って質問したのですが、そうではないようです。それで彼女の答えをきいて私もなんとなく、かわいらしい「ごっご遊び」で、聖歌隊の白い衣装を着た姿でBishop(主教)を演じたことから来るのかもしれない、と思っています。

そしてジェレミーが父親の世話をしたことが述べられています。亡くなったのは1965年4月22日ですから(The Berkswell Miscellany より)、ジェレミーが31歳の時でした。この頃のジェレミーの出演作品には、アメリカでの舞台The Deputy (1964) や映画 Act of Reprisal (1965) があります。仕事をしながら、父の闘病生活を支えたり、治療方針を決めたりしたのでしょうね。My Fair Ladyが 1964年公開の作品で、公開前から、そして公開後ももちろん、大きな話題になっていたようですから、演劇のこともいわゆる芸能界のこともまったく知らないお父様だったようですが、話題の作品にジェレミーが出演したことを喜ばれたのではないでしょうか。

ジェレミーのお母様が亡くなったのは1959年ですから、お父様が亡くなったのはその6年後ということになります。

RM
前回の記事に引き続き、1973年のインタビューからご紹介します。お父様のことを話しているところです。


両親は二人ともすでに亡くなっているが、ブレットは父に対していまだに、強い同情と思いやりの気持ちを持っている。友達も同じ年頃の人も皆、戦争によって死んでしまい、その後の平和な時代に軍人だった自分を何とか適応させようと苦労した父だった。

「私は9年の間に生まれた子供のうちの末っ子で、『最後のわら』でした。一番上のジョンは教師、マイケルは絵描きになって今はマジョルカ島に住んでいて、パトリックは建築家です。俳優になりたいと私が言った時、すべては終わりで、父を心底がっかりさせてしまいました。

「私は父のために軍人になろうとしたこともありました。でも16歳でリューマチ熱にかかってからは、軍務につくことは不可能になったのです。父は私が俳優になろうとした時、ハギンズの名を使わせませんでした。使えたなら、バランスのよい名前だったと思うのですが。」

Both are now dead, but Brett has a strong sympathy still for his father, whose every single friend and contemporary was killed in the war and who tried hard to re-adjust to bring a soldier in peace time.

"I was the last child born in the ninth year of their marriage and, in many ways, the last straw. My eldest brother John is a teacher, Michael is a painter living in Majorca, and Patrick is a successful architect. When I said I wanted to be an actor, it was the end. I was a great disappointment to my father.

"I would like to have been a soldier for a while, for my father's sake, but I had rheumatic fever at 16 and never saw any kind of military service. My father wouldn't let me use the name Huggins when I decided to act, although it would have been a good balance. [...]"



父の友人は皆戦争で死んでしまったという話は、アメリカで収録されたラジオ番組、Desert Island Discs (1991) の中でも話していました。


父は本当に気の毒で、否応無しに戦争に巻き込まれる時代に生まれました。輝く未来を持っていたはずのイギリスの若者は皆、第一次世界大戦で死にました。

(中略)

父について特別だと私が思うのは、同世代であの戦争を本当に生き延びた唯一の人と言ってもよい、という点です。ですからとても孤独でした。友人を皆戦争で失ったのです。名声と勲章と栄誉を得た、偉大な軍人ではありましたが...。


Well, I mean he was—poor man—born at an age when you were hurled into war ; and all the bright young men of England were killed, as we know, in the first world war.

[...] [W]hat, I think, probably was the most extraordinary thing, of course, he was the only one of his generation really to survive that war. So he was quite a lonely man really. He lost all his friends in the war and, although he was very famous, great soldier, decorated, honoured...



ラジオインタビューの良い点は、声の調子がきけるところですね。この音声のある場所については、以前の記事でご紹介しました。

1973年のTV TImesのインタビューにもどると、自分が父にとって「最後のわら」だった、という表現は、ご存知のかたも多いでしょうが、"It's the last straw that breaks the camel's back." (最後のわら1本がらくだの背を折る)という言い方からきていて、忍耐の限界を破ってしまうものという意味です。上の3人が父の後をつがなかった上にジェレミーも、ということですね。

ジェレミーの3人の兄の内、一番上のJohnについては1973年のこのインタビューではジェレミーは「教師」と言っていますが、聖職者になって、St Martin in the Fields教会で1995年11月29日におこなわれたジェレミーを追悼する会で司式者をつとめています。以下は "A Study in Celluloid" からの抜粋です。


John Huggins師は司式者として参列者に祝福を与えたのみならず、一番上の兄として、子供時代のジェレミーの思い出を語った。勇気があっていたずら好きで、愛情に満ちあふれた家族の一員だったジェレミーを。そしてジェレミーが息子のDavidをどんなに誇りに思っていたかを、あらためて思い出させてくれた。

The Reverend John Huggins gave us not only his blessing but also an older brother's recollections of Jeremy as a schoolboy—brave, mischievous and part of a loving family. He also reminded us that Jeremy was intensely proud of his own son, David.



"A Study in Celluloid"には書かれていませんが、この時に長兄のJohnは、家族のなかで特にジェレミーが、父の死の時まで病気の父の世話をしたことも話したそうです。これはGoogle Booksを検索していて、The Baker Street Journalの中の文章としてみつけました。いつか引用してご紹介しましょう。

父がハギンズの名前を使わせなかった、ということを、Desert Island Discs (1991) ではこのように補足しています。


いえ、父だけのせいではないのです。私は子供のころ舌癒着症で、17歳まではうまく舌が動きませんでした。だから父は私が無茶な望みを持っていることにびっくりして、心配したのでしょう。rもsも発音できなかったので、俳優を志しても失敗するだろうと思っていたのでしょう。だから、ひどい父だったという訳ではありません。

No, it wasn't entirely his fault. I was tongue-tied as a child and my tongue wasn't actually operated on until I was 17, so I think that he was frightened for me. I mean I had no "r" sound, no "s" sound and I think he was alarmed that I would fail, and so it wasn't entirely his fault.



そしてこの後、このラジオインタビューでは、父が演劇のことを何も知らないながら、ジェレミーの演じたハムレットを観にきた時のことを楽しい口調で話しています。

ジェレミーが話していることを読んだり聴いたりすると、自分とはいくつかの点で違う性質を持っていたとしても、そして若い頃は気持ちのすれ違いがあったとしても、父親のことを本当に好きだったと強く感じます。

ジェレミーの言動を知るにつけて、ジェレミーは本当に愛情が深い人だったと思います。そのことは時に、大きな苦しみを自身に与えたとさえ言えるくらいに。ですから以前の記事でも書きましたが、ジェレミーがホームズの父について言った言葉の、"His father was a fat, ex-army toad, I think." に、父への複雑な気持ちを反映させているようにとれることをDavid Stuart Daviesが書いているのは間違いだと思っています。特にジェレミーがそう言ったのが死の数ヶ月前のインタビューだったことを思うと、David Stuart Daviesの本はとてもよい本ですが、この点については「いえいえ、違いますよ!」と声を大にして言いたいです。:-)

RM

前々回の記事に引き続き、1973年のインタビューから両親のことが書かれている部分の引用です。


ブレットの父は、ブレットの母とバーミンガムのクエーカーの集会所で出会った。この時父は胸板の厚い、いかにも意志の強そうな顔をした28歳の男で、母はヴィクトリア朝風の育ち方をした19歳の若い女性だった。二人は寝室のドアの下から短い手紙をすべりこませて、交際を深めた。

「結婚式が終わって両親が車で出発する時、父が『どこへ行こうか?』とたずねると、母が『ずっとパリにあこがれていたの』と答えたそうです。それで二人はパリに行って、父は水ぼうそうにかかりました。」

Brett's father was a large-chested, strong-chinned man of 28 when he met Brett's mother in a Quaker meeting-house in Birmingham. She was a young girl of 19 with a Victorian upbringing. They courted with notes under bedroom doors. "I'm told that when they drove away from the wedding, my father said: 'Where shall we go now?' And my mother said: 'I've always dreamed of Paris.' So off they went to Paris and he got chicken pox."



お父様の写真はこちらです。少し前の「子供の頃の写真(馬とともに)」でご紹介した、LiveJournalのフォーラムへの投稿記事中の写真です。「胸板の厚い、意志の強そうな顔をしている」という感じがわかりますね。こうしてあらためてみると、ジェレミーは父親にも似ているようにも思われてきます。

両親はクエーカーの集会所で出会ったということですが、クエーカー教徒は教会や聖職者を持たず、またミサを行わず、集会所につどって祈りと瞑想の時を持つようです。

ジェレミーはお母様については、私の知っている限り、いつも「アイルランドのクエーカー」という紹介をします。ただ興味深いことには、系譜学が専門の人が言うには、母親の両親からさらにわかる範囲でさかのぼっていっても、アイルランドの出身者はみつからないそうです。(もちろん、みつかっていないだけという可能性もあります。)ただジェレミーが、母がアイルランドとつながっていると思っていたことは確かですし、必ずそう言ったということは、ジェレミーにとって、そのことが何か特別な意味があったのかもしれません。

もう一つは、クエーカー教徒ということです。両親のお墓は教会にありますし、息子の一人は後に聖職者になりました。ジェレミーも含めて、一家は村の教会に行っていたのだろうと想像します。それでもジェレミーが母の紹介として必ず「アイルランドのクエーカー」と言うことが、私には印象的に思えます。母が宗派にとらわれない、柔軟な考え方を持つクエーカー教徒であったということが、ジェレミーにとって重要だったのではないでしょうか。ジェレミーもまた、瞑想を行い、小さな仏像を身近に置いていたように、一つの宗教の教義にとらわれない考え方を持つ人でした。

両親の結婚と新婚旅行にまつわる話は、ハギンズ家で時々語られていたのでしょう。どこの家にも、そういう話がいくつかありますよね。何かの時には話題にのぼって、皆が笑い合うような話が。「二人はパリに行って、そこで父は水ぼうそうにかかりました。」と言った後、ジェレミーはいたずらっぽい目でにこっと笑ったように想像します。水ぼうそうにかかった後、新婚旅行中の二人はパリでどうしたのでしょうね。それも多分ジェレミーは両親からよくきいていたのでしょう。

RM
今日は短い映像のご紹介です。

ネット上のAP (Associated Press) 通信社のアーカイブにおさめられた、1958年5月29日のニュース映像です。その中に、ジェレミーとアナの結婚式の様子が短く触れられています。(実際の結婚式は5月26日です。)この映像をみつけたのはこの前の水曜日で、じわーっと感動してうれしくなって、フォーラムに書き込みました。2012年の日本にいて、1958年のイギリスにいるような気がします、と添えて。

British Movietoneの名前がSourceとしてあげられています。Wikipediaによれば、Movietone Newsというのはニュース映画だそうで、アメリカ、イギリスの映画館でみることができたようです。日本でも以前は映画館でニュース映画を上映していましたね。といっても、私は実際にはみたことはないのですが。

APはジェレミーが亡くなった知らせを全世界に配信した通信社です。日本の記事でも使われた写真は、1989年にPipe Smoker of the Yearに選ばれた時に撮影された、とてもよい笑顔の写真で、AP Archiveに以前はありました。これについて質問するためにウェブサイトに登録したことがあって、そのために今回ウェブサイトのリニューアルのお知らせが届き、行ってみて検索したところ、この映像がみつかったのです。

フォーラムでは、みることができた人、できない人がいました。みることができない人は、必要なプラグインであるMicrosoft Silverlightをダウンロード、インストールするように促すメッセージが出るようです。皆様はどうでしょうか?

アドレスは以下のとおりです。

http://www.aparchive.com/metadata/view/959f27bbeb1249fca58f5e8df66bf1d9

メッセージの指示どおりにしてもみることができない方がいらしたら、お手伝いができるかもしれません。もしもよければ、以前コメント欄に書いたメールアドレス宛にメールを送ってください。

前半は結婚式に来たスター達を次々と映し出して、その後、義理の父と一緒にアナが到着します。ジェレミーとアナが二人一緒のシーンは最後の短い間しかうつらないのですが、笑顔で何かを話したり、みつめあう二人はとてもういういしく、うれしい映像でした。

この結婚は長くは続かなかったのですが、二人は生涯友人として、デイビッドの両親として、互いを尊重し合っていました。ですからこの出会いはやはりすばらしいものだった、と思います。

RM
前回は、ジェレミーが「貧困」のうちに楽しく暮らしている、と話している箇所を引用しました。そして、お金をどうあつかっていいかよくわからないし、両親もそうだった、と言っていました。その後の部分が今日のところです。お母様のお金にまつわるエピソード、そして軍人としてのお父様がどういうかただったかを話しています。


"The Real Jeremy Brett—Alive and Well in 'Exquisite Poverty'"
Interview by Kenneth Passingham
TV Times, February 24-March 2, 1973

「最近叔母が話してくれたのですが、お茶に来た銀行の支店長が、心配ごとをかかえているようにみえたので、母が理由をたずねたそうです。『当行の当座預金以上に小切手を振出していらっしゃるでしょう。それが心配なんです』と支店長は言いました。『まあ、なんて恐ろしいことでしょう!』母はそう言って、『だからお金が必要だというわけですね。大丈夫ですとも。さあ私の小切手帳をどこに置いたかしら。』」

(中略)

ジェレミー・ブレットはコベントリーの近くのバークスウェルで、軍人の4人の息子の一番下として生まれた。父はヘンリー・ウィリアム・ハギンズ中佐で、母はアイルランドの血が半分入ったクエーカー教徒だった。

「全然違う二人の、普通なら考えられない結婚だったのです。父は軍人としてとても成功した人でした。つまり、信じられないくらい勇敢であるために必要な臆病さを持っていた、ということです。自分の臆病さに打ち勝とうと努めた結果、第一次世界大戦での最初の殊勲章(Distinguished Service Order)の一つを授けられ、さらに2回従軍十字勲章(Military Cross)を得ました。」


"My aunt was telling me a story about them recently. It seems the bank manager came to tea and looked rather worried. My mother asked him the reason. 'It's your overdraft,' he said. 'Oh, Lord! How dreadful,' said my mother. 'You mean you want some money? Of course. Now where did I put my cheque book?'"

[...]

Jeremy Brett was born in Berkswell, near Coventry, the youngest of a soldier's four sons. His father was Lt. Col. Henry William Huggins and his mother was half-Irish, as well being a Quaker.

"It was an improbable marriage of opposites. My father was a particularly successful soldier by which I mean he was sufficiently cowardly to be incredibly brave. Trying to prove himself and conquer his cowardice he earned one of the first D.S.O.s of World War One and twice won the M.C."



ジェレミーが叔母様(あるいは伯母様)からきいた話は、ジェレミーのお母様は小切手を切ることによって、支店長の金銭にまつわる心配を軽くしようとしたけれども、そもそも支店長の心配は、ハギンズ家の経済状況だった、ということだと思います。

お母様はこんなふうに、困っている人がいたらすぐに助けようとする人だったのでしょう。そしてお金とは、そのようなことのために使うものだったのでしょう。

その後の部分では、いつもと同じように、母はアイルランドのクエーカーだと紹介しています。クエーカーについては、以前こちらの記事に書いたことがあります。
母、Elizabethのこと;Quaker

そして父親の紹介です。勇敢さと臆病さについての発言は、ジェレミーが小さい頃に直接きいたことです。以前こちらの記事に書きました。
父と子

1973年のこのインタビューで話していることと、以前ご紹介した1991年のラジオインタビューで話していることを読むと、ジェレミーが父の軍人としての働きと名誉をとても誇りに思っていたこと、そして子供の自分に話してくれた内容を、ずっと忘れずに大切に思っていたのを感じることができます。

RM
このところ、ジェレミーの子供の頃のこと、ご両親のことを考えることが多いので、ジェレミーがご両親のことにも多く触れているインタビューから引用しようと思います。これはホームズ以前のインタビューということでも、珍しいものです。やはり圧倒的に、グラナダシリーズ開始後のインタビューが多いですから。

このインタビュー記事のタイトルは"The Real Jeremy Brett—Alive and Well in 'Exquisite Poverty'"です。訳せば「本物のジェレミー・ブレット ---『ひどい貧困』の中で元気にすごしている」といった感じでしょうか。「本物のジェレミー・ブレット」というのは、この記事中にある、ジェレミーをモデルにしたマネキン人形のことをふまえているのでしょう。(このことには、今回はふれません)。

(なお、このインタビュー記事の他の部分を、以前一度ご紹介したことがあります。
Annaのこと;1973年のインタビューから

今日の部分は、39歳のジェレミーの暮らしが想像できておもしろいです。そしてこの後、お母様とお金の話が出てくるのですが、今日はその前までです。

まず南アメリカでのヒッチハイクの旅行のことをほんの少し、そして最近ロンドンのCampden Hillの家に引っ越した、ということを話しています。Campden Hillの家を買うにあたっては、会計をみてくれている人からは無理だと言われたけれども、という話があって、それからが以下の部分です。


"The Real Jeremy Brett—Alive and Well in 'Exquisite Poverty'"
Interview by Kenneth Passingham
TV Times, February 24-March 2, 1973

「今は貧困の内に暮らしている、とでも言えそうな状態です。床にカーペットもないのですが、そのことも楽しんでいます。もし見事な家具付きの家だったら、もう興味がなくなっているかもしれませんね。前の家を出るのに特に未練がなかったのは、もう全部家具がととのえられて、することがなくなっていたからでした。誰でも、何かまだやり残しがあると、はりきってとりかかるものですよね。」

イートン校出身だと言うと、お金持ちで働く必要がない境遇だと思われる、と彼は言う。「まったくそんなことはありません。少なくとも私の場合は。」

「ああ、でも貴族のような暮らしをしてきました。すごい浪費家なんです。トマトを買いにいって、シャンデリアを買って帰ってきたこともありました。シャンデリアなんて買う余裕がないということが、全然思い浮かばなかったのです。

「お金は私にとってはやっかいなしろもので、全然うまくいきません。がんばってはいるのですが、お金自体には別に価値はなくて、ただ、ものを買うためには必要だ、としか思えません。

「お金をどうあつかったらよいのか全然わかりません。両親も同じでした。」

(原文)
"I live in what you might call exquisite poverty. I rather enjoy not having carpets on the floor. I might get complacent if the place were perfectly furnished. I was happy to leave my last house because it was all furnished and there was no more I could do. You must be left with some drive to do something."

He says that to tell someone you've been to Eton gives the impression that you have money and don't have to work. "It's a lie. At least, it is in my case.

"Oh, I've lived like a lord. Been a big spender. I went out for a pound of tomatoes the other day and came back with a chandelier. It never crossed my mind that I couldn't afford it.

"Money to me is a very complicated game and I'm not very good at it. I try very hard, but I regard it merely as a necessary means to an end.

"I've no idea how to look after it. And my parents had no idea either."



おもしろいでしょう。ジェレミーはインタビュー相手として、とてもおもしろかったと思います。こういう話をしてくれるのですから。ジェレミーと一日すごせるとしたら、どうしたい?という質問がフォーラムであったときに、ジェレミーがいろいろ話してくれるのを一日きいていたい、という人がいて、賛同を集めていました。

ここで出てくるCampden Hillの家は、多分、Gary Bondと共に住んだ家で、二人が一緒に住んでいたことは、この近くに住んでいた映画監督の John Schlesinger の伝記にも書かれています。二人はこの家で、親しい友人をむかえて楽しい時間をすごしたときいている、とGaryの友人は教えてくれました。お金がなくてもカーペットがなくても、幸せに暮らしていたのですね。そのことをきいて、私も幸せな気持ちになりました。

お金については、貯めることはあまり考えずに楽しく使うタイプだった、ということが推測できる他のお話としては、Jeremy Paulが「ジェレミーにおごるのは至難の業だった」と言っていることがあげられます。(「Granada Television: the first generation」という本に書かれていて、こちらの記事でご紹介しました。)いつでもジェレミーがおごる側だったのでしょう。特に、相手の役にたったり、そのひとが喜んでくれるなら、お金自体はどうってことはなかったのでしょう。

そして、こういうところはお母様ゆずりのものらしい、ということが、次回ご紹介するつもりのエピソードでわかります。

RM
ジェレミーが、ワトスンをどのように演じたかを話している言葉をご紹介しています。いろいろな時にワトスンを演じた時のことをきかれていて、たとえば1991年のアメリカでのインタビューでは、くまのプーさんのように演じた、と言っていることを前回ご紹介しました。
ワトスンをどのように演じたか その1:くまのプーさんのように

(ジェレミーがワトスンを演じた舞台の宣伝用写真を、りえさんのブログで見ることができます。りえさんのブログのこちらのページの2枚目の写真をご覧ください。)

今日は前回のジェレミーの答えとは少し違ってきこえて、でもとても興味深いことを言っている雑誌でのインタビューをご紹介します。雑誌 Scarlet Streetの1992年のインタビューからの引用で、SSとあるのはインタビューアのJim Knüschを、JBはもちろんジェレミーを意味します。


SS: あなたはホームズとワトスンの両方を演じた、数少ない俳優の一人ですね。ドクター・ワトスンの役作りはどのようにしたのですか?

JB: 私は幸運なことに、軍人の息子なのです。私には軍人の血が流れていると思っています。とても情熱的で、ホームズのためなら何でもする、というワトスンを演じました。ホームズに対する敬愛の念を強く持っていて、でもホームズが自分自身を大切にせずに、心身を損なうようなおこないをすると、怒ってうろたえる --- ものすごくうろたえました。ホームズのためなら、ひとを殺すことさえしたでしょう。彼のためならひとを殺すことも辞さない。そんなふうに演じました。

(原文)
SS: You're one of the few actors to play both Holmes and Watson. What was your approach to the character of the doctor?

JB: Well, I was fortunate, being the son of a soldier. I have some military blood in my veins, I suppose. I played him with enormous enthusiasm and devotion to Holmes. With enormous respect, although I got quite angry and upset—very upset—when Holmes abused himself. I would kill for him. Would kill for him. That's how I played Watson.

("abuse oneself" は多分、主にコカインの注射のことなのでしょう。)


私がこの答えを興味深いと思う理由の一つは、ジェレミーがお父様が軍人であることにまず言及していることです。David Stuart Daviesは本の中で、最期までジェレミーは父親に対してある種の強いわだかまりを持っていた、と読者がとれるようなことを書いています。最後に会った時にジェレミーがホームズの子供時代を詳細に話した中で、「ホームズの父親は、太ったガマガエルのような退役軍人だったと思う」("His father was a fat, ex-army toad, I think.") と言ったことを紹介して、その直後に、ジェレミー自身と退役軍人だった父親の関係は難しいものだった、と記しています("To me the most telling phrase refers to Holmes's father: 'ex-army toad'. Brett's relationship with his own soldier-father was a difficult one." Bending the Willowより)。

でも私は、このブログでも2回ほどふれたのですが、ジェレミーのお父様へのあたたかい気持ちを、そこかしこで感じるのです。もちろん、一般的に男親と息子の関係がどのようなものか、私にはまったくわからないのですから、私が間違っているのかもしれませんが。でも、俳優になることを反対された時はとても辛かったと思いますが、最期までジェレミーが父親に負の感情を抱いていたとは、私は思いません。今までにこのブログで書いたこと以外にも、いくつかそう思う理由があるのですが、おいおい書いていきましょう。

それでこのインタビューにもどると、ワトスンの演じ方についてたずねられて、自分が軍人の血をひいていることをまっ先にあげていることにおどろき、そして、ああやっぱり、と思ったのです。演じるのが楽しかったワトスン、(プーさんのように)誰にでも好かれていたワトスン、元軍医でホームズの良き友人で、ホームズを守る強い気概を持っていたワトスン。そのワトスンを演じる時に、こころのどこかにお父様の存在があったということ。それをとてもうれしく感じました。

そしてもう一つ興味深かったことは、「ホームズのためならひとを殺すことも辞さない」というつよい表現を2回くりかえしていることです。ジェレミーはホームズの物語を、なによりもまずホームズとワトスンの友情の物語としてみていたのだろう、とあらためて思いました。そして自らがホームズの時も、ワトスンがこのように思っているということを、こころの奥底で知っているホームズを演じていたのだろう、と感じました。

RM


 RM

Author: RM
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