Jeremy のことが知りたくて ~ ジェレミー・ブレット(Jeremy Brett)を愛するかたへ

英グラナダ・テレビでシャーロック・ホームズを演じた俳優の人生を言祝いで

ジェレミーの言葉として、こんなのを読んだことがおありになるかもしれません。ネット上、たとえばTumblrなどで、広まっていますから。

「いま誰かを探してなんていませんし、探しに行くたちでもなくて、誰かにみつけてもらうタイプなんです。」

"I'm not looking and I don't go hunting. I'm the type who's got to be found."


IMDbのジェレミーのページにもありますが、Tumblrでもこちらでも出典は示されていません。
http://www.imdb.com/name/nm0107950/bio?ref_=nm_dyk_qt_sm#quotes

これだけ読むと、自分からは何もしなくてももてるんです、って言っているようにも受け取れるかもしれませんね。

でも、以下の1990年の記事ではその前の言葉を読むことができて、これを読むと、ジェレミーがどんな気持ちでこう言ったかわかる気がします。(ただ、brettish.com が上記の言葉を引用した最初だと推測するのですが、そこには出典が書いてあって、それは以下の記事ではなく1991年の雑誌からとなっています。したがって、1991年にもジェレミーはこの言葉を言ったのかもしれませんし、あるいはその雑誌が以下の記事の言葉を引用したのかもしれません。)

「ある意味ではホームズに似てきたと言わなければなりません。パイプも吸い始めました。でもコカインまでは絶対に吸いませんけどね!ホームズはとても孤独な人物です。以前は孤独に過ごすなんて、僕には絶対になかったんですが、今ではかなりの時間を一人で過ごしています。」孤独の内に過ごす ---「一人だけど、一人を寂しがっているわけじゃなく」--- その理由の一端は、彼がこころから愛した二度目の妻、アメリカ人のJoan(ジョーン)をいまも深く慕い、偲んでいるからだ(その前に女優Anna Masseyと結婚したが、離婚した)。ジョーンは1985年、ジェレミーがホームズの第二シリーズに関わっている時に亡くなった。悲しみと、重要な役を演じる重圧とから、彼は精神的な危機に陥った。

「僕の妻のあとに、誰かと出会って愛するなんて、とても難しいことです。いまはその可能性はまったく考えられませんし、いま誰かを探してなんていません。探しに行くたちでもなくて、誰かにみつけてもらうタイプなんです。」


'I have to admit I've become very like him [Sherlock Holmes] in certain ways,' he says. 'I even started smoking a pipe, though I draw the line at snorting cocaine! Holmes was a very isolated creature. I was never like that in the past, but now I spend a lot of time on my own.' Part of the reason for that isolation — 'alone but not lonely' — is the memory of his much-loved American second wife Joan (his first marriage to actress Anna Massey ended in divorce). Joan died in 1985 when Jeremy was working on the second Holmes series. Grief and the strain of playing the key role resulted in a breakdown.

'My last wife is very hard to replace. I can't see any possibility at the moment, and I'm not looking. I don't go hunting, I'm the type who's got to be found.'


"Love and Sherlock Holmes"
By William Hall
Daily Mail, November 16, 1990

これなら、ジェレミーの言葉の意味がわかる気がします。ジョーンを今でも愛していて、ほかの人を愛せるとは思えない。自分は今は独身だけど、新しい出会いを自分から探しにいく気持ちにはなれない。

そして最後の「誰かにみつけてもらうタイプ」という言葉は、ジョーンが自分をみつけてくれた、というジェレミーの思いから来るもののはずです。以前の「ジェレミーの悲しみと、あたたかさ(4); 1991年のDesert Island Discsから(1)」の記事から、省略しながら引用します。なお最近もジョーンに関する記事を書きましたが、ジョーンはアメリカの公共放送サービスPBSに属する放送局WGBHのプロデューサーでした。

「それから『Design for Living』の芝居に出ました。その時は知らなかったのですが、最愛の人が僕をみていました。彼女はステージにいる僕をみたのです。

1975年には、『The Rivals』の撮影をしていました。そしてそのとき僕たちは出会ったのです!彼女がそのお膳立てをしたのじゃないかと思うのです。というのは僕以外にも主要な出演者はいたのに僕が選ばれたのですから。カメラの前ではじめて出会い、話しているところを4分間収録するはずが、2時間半カメラの前で話し続けました。」



こうして見ていくと、「誰かにみつけてもらうタイプ」と言ったジェレミーのこころの内には、自分をみつけてくれたジョーンが懐かしくて恋しい、という気持ち以外には何もないように思います。

RM
ジェレミーが、自分の子供の頃のことを話しているインタビューは、いくつかご紹介しました。

今日のインタビューでも、子供の頃のことにふれています。その中で特に面白かったのは、小さいころ何になりたいと思っていたかという話と、俳優をこころざしたのはなぜか、というところです。どちらも別のインタビューでも話している話題ではありますが、ここにはそれまできいたことがなかったことも含まれています。

でもまずはその少し前から。

「ものすごくわんぱくな子供でした。どんなわるいことをしても、とがめられなかったような感じです。でも、僕がどんなだったか、兄たちにきいた方がもっとよくわかると思いますよ!」

"I believe I was an incredibly naughty child. I have a feeling I was allowed to get away with murder. But my brothers could probably answer that better than I can!"


「4人の男の子のうちの一番下で、大切に可愛がられて育ちました」と言っているインタビューもありました(「大病の後に;インタビュー記事 When the lights went out (1990) より」)

この後、なぜ俳優という職業を選んだのか、とインタビューアに尋ねられての答えが以下です。

「誰でも本当は俳優なんだど思いませんか?子供のころは、ごっこ遊びをしたり扮装したりして、その頃なら俳優にもなれるんです。そして母は、僕が演じる道にすすむことに賛成して、励ましてくれました。」

「一番最初になりたかったのは馬の騎手です。でも身長が伸びすぎてしまってだめでした。それで次には機関車の機関士になりたいと思いました。今でもまだそう思ってます!」


"Well, I suppose we're all actors, aren't we?" he reflects. "As a kid you play charades, or you dress up, and at that moment you have a choice. And my mother encouraged me to take it up professionally.

"My first ambition as a child was to be a jockey, but I grew too big for that. Then I wanted to be an engine driver and I still want to do that!"


By Christine Palmer
"The Secret of Success”
January 17, 1987 [source unknown]


機関士ですか?!はじめてききました!

以前から知っていたのは、騎手、(クラシック音楽の)歌手、ダンサーです。騎手はここにあるように、大きくなりすぎて、歌手は「とてもすばらしいソプラノの声だったんですが、変声期にちょうどよい具合には声変わりしてくれなくて」(「バレエ;1988年のインタビューから」にあります)、そしてダンサーは「バレエでは男はいつも女性をもちあげていることに気づいて、それはちょっとイヤだなあと思」って(同じインタビューにありますがもちろん半分以上冗談ですね)、なれなかったということでした。

もちろん子供の頃はいろんなものになりたがるとは思いますが、機関士は初耳です。「今も機関士になりたい」ということは、鉄道や機関車が好きなのですね。うふふ、こういうことでさえ、はじめてのことを知るのは嬉しいのです。

俳優を目指したのは、「映画『嵐が丘』のなかのローレンス・オリビエの演技にすっかり魅せられて、その後、彼が『ヘンリー5世』で馬に乗っているのを観て、僕も馬に乗れるのだから、彼のようになれるかもしれないと思」ったからだと言っていましたが(「『私が子供だった頃』後半」)、これが直接のきっかけだとしても、もっと小さい時から、かわいらしいごっこ遊びが特に好きだったのですね。

3歳の時に小さな妖精の役でパイから飛び出したこと、同じ頃「舞台デビュー」を果たしたことは、「『私が子供だった頃』後半」でふれています。

そういえば「追悼式での John Huggins師の言葉;1995年のThe Baker Street Journal より」の記事で、一番上のお兄様がふれたジェレミーの小さい頃のあだ名「Little Bishop」は、ごっご遊びに由来するのかもしれない、と書いた事がありました。

そしてお母様が、俳優になりたいジェレミーを応援して力づけたのですね。お母様自身が芸術的な素質を持っていて、子供が芸術に興味を持っているのなら、その道に進んでほしいと思っていたのではないでしょうか。ジェレミーのお兄様の一人は画家です。


さて、この記事は1987年1月の日付があり、インタビューがこの頃行われたのであれば、前年の秋からの最初の入院ののちに退院して、この年のはじめに「四つの署名」の撮影をはじめるまでの期間ということになります。インタビューでのジェレミーは、楽しくてあたたかくて、いつもの通りに思えます。でも、もしもこの期間のものであれば、本当は不安と希望の両方があったのかもしれません。その不安、たとえば「演じる能力を失ってしまったかもしれない」という不安をEdward Hardwicke(エドワード・ハードウィック)には入院中に話していたようですが(「『四つの署名』撮影の頃」)、インタビューにのぞむ時にはそれを出さずに、いつも通りのジェレミーだったのでしょうね。その頃のジェレミーのこころの中を想像しながら読みました。

RM
この写真は見たことがあるかたも多いかもしれません。Getty Imagesにある、舞台"The Secret of Sherlock Holmes"の一場面の写真です。クリックすると、Getty Imagesのページに飛びます。



そして最近eBayに、この同じ場面を撮った別の写真が出品されました。下にスクロールしていくと、写真と当時の説明文(キャプション)があります。(数ヶ月後には削除されると思います)
http://www.ebay.co.uk/itm/390904360827

これもいい写真ですね。二人とも少しずつ違う表情で、Getty Imagesにある写真はリトマス紙の色が変わる前、eBayの写真は変わった後かもしれません。こちらは全身が写っているのも嬉しいです。こういう姿勢だったのですね。そして靴の先にこすれた跡のようなものまでみえて、その場にいるような気持ちになって、ちょっとどきどきします。

以前、やはり同じ場面の、また違う写真がカバーにつかわれている雑誌をご紹介したことがあります。
Sherlock Holmes GazetteのDVD-ROM
こちらは器具が違うようなので、違う劇場での公演の写真かもしれません。(追記:違う劇場ではなく、同じWyndhams Theatreでの写真でした。ArenaPALにあるこの写真のキャプションより。)


さて、この場面に相当するのは、原作とグラナダ版では「海軍条約事件」の冒頭ですね。下は原作からです。

「ワトスン君、君はまたたいへんなときにやって来たもんだね。もしこの紙が青いままだったら、万事それでいいのだが、もし赤く変色したら、人間一人の生命にかかわるんだよ」といって彼は試験管のなかへリトマス紙を浸した。するとたちまち濁った紅いろにその紙は変色したので、「ふむ、やっぱり思ったとおりだ! ワトスン君、すぐすむからね。タバコならそのペルシャぐつのなかにあるよ」(中略)

「なあに、ただの平凡な殺人事件さ。君はもっと面白い事件をもってきたんだろう?君ときたらまったく犯罪の海燕だからな(訳注 海燕が現われると暴風雨がくるといわれる)。どんな事件だい?」(延原謙訳)


"You come at a crisis, Watson," said he. "If this paper remains blue, all is well. If it turns red, it means a man's life." He dipped it into the test-tube and it flushed at once into a dull, dirty crimson. "Hum! I thought as much!" he cried. "I will be at your service in an instant, Watson. You will find tobacco in the Persian slipper." [...]

"A very commonplace little murder," said he. "You've got something better, I fancy. You are the stormy petrel of crime, Watson. What is it?"



Jeremy Paulが脚本を書いた舞台"The Secret of Sherlock Holmes"にもこの場面があり、ホームズの台詞は原作と同じ、でもその後のワトスンの言葉が違います。

ホームズ:君はもっと面白い事件をもってきたんだろう? 君ときたらまったく犯罪の海燕だからな。どんな事件だい?

ワトスン:僕は婚約したよ、ホームズ。メリー・モースタンと。


HOLMES: You've got something 
better, I fancy. You are the stormy petrel of crime, Watson. What is it?



WATSON: I'm engaged to be married, Holmes. To Mary Morstan...



ホームズは表情を変えません。それからワトスンをあたたかく祝福します。でもワトスンが去った後ワトスンの椅子に座り、「ボヘミアの醜聞」のあの台詞を口にします。"I am lost without my Boswell."

この劇はこのように、原作の台詞を自在に使いながら進んでいきます。

この劇の音声の場所と利用にあたっての注意については、以前こちらでご紹介しました。
The Secret of Sherlock Holmesの全幕の音声と、Edwardの言葉

あらためてこうして原作と比べてみると、同じ台詞が違う場所で使われて、ホームズの隠されていた感情を表現するように変わっているのに気づきます。ジェレミーはいくつかのインタビューで、ホームズは「ありがとう」も「助けてくれ」も口にできないと言っていましたが、この劇についてはカナダの新聞でのインタビューでこのように言っています。

「この劇では、ホームズは苦痛の感情を吐き出してしまいたいと望んでいるのです。その並外れた頭脳ゆえに苦しんでぼろぼろになって、『助けてくれ、助けてくれ』と言うのです。」

"In this play, Holmes is longing to vomit his pain. He is saying, 'Help me, help me, help me!' while his genius torments him, takes him apart."


"Actor seeks new clues to the elusive, tormented Holmes"
The Globe and Mail (Canada), August 7, 1989

この劇は、ホームズとしての感情を吐き出せた、豊かな感情表現の力を発揮できたという意味でも、ジェレミーにとって重要な場だったのだと思います。

RM
先週末からの荒れた天気で、皆様は大丈夫でいらっしゃいましたか。

前回、Anna Masseyが無人島へ持っていく本として数学の本を選んだと書いている時に、ジェレミーに関してグラナダ版のプロデューサーのMichael Cox(マイケル・コックス)が語っている、あるエピソードを思い出しました。(以下の和訳のうちホームズの台詞の部分の日本語は、ほぼ延原謙訳を借りています。)

シャーロック・ホームズは自分が扱った事件がどのように書かれるべきかについて、確固たる主張を持っていた。「ぶなの木屋敷」の最初でホームズは、ワトスンが「一連の講義であるべきものを、物語にまで低級化させている」とする。また別の時にはワトスンの書く物語は「まるでユークリッド幾何学の第五定理に、恋愛物語か駆落ちの話をもちこんだような結果になっている」と言う。ホームズのこの台詞はジェレミー・ブレットを少し困惑させた。「ユークリッドっていったい誰なんだ?」と「四つの署名」の読み合わせの時に私にたずねた。パブリック・スクールの教育ときたら...。しかしこれから見ていくように、ジェレミーもまた、コナン・ドイルの作品がどのようにドラマ化されるべきかについて、確固たる主張を持っていた。John Hawkesworth(訳注:グラナダ版のテレビ用構成担当、いくつかの脚本も執筆)も、そして私もそうだった。

Sherlock Holmes had very strong views on the way in which his cases should be presented to the public. At the beginning of The Copper Beeches he says that Watson has 'degraded what should have been a course of lectures into a series of tales'. Elsewhere he describes the effect of those tales 'as if you worked a love-story or an elopement into the fifth proposition of Euclid'. This was a line which gave Jeremy Brett a little trouble. 'Who on earth was Euclid?' he asked me at the read-through of The Sign of Four. So much for a public-school education. But, as we shall see, Jeremy too had strong views on the way in which Conan Doyle's stories should be dramatised; so did John Hawkesworth; so did I.


A Study in Celluloid
By Michael Cox

「ユークリッドっていったい誰なんだ?」ってジェレミーはきいたんですね、うふふ。まじめな顔で困ったように尋ねたのでしょうか。これは「ユークリッド」という名前をきいたことがなかったのでしょうか、それともきいたことはあるけど、実際のところいつの時代のどこの国のどんな人か、ということでしょうか。マイケル・コックスは前者ととったようですね。マイケルはジェレミーに説明してあげたのでしょうか。

ユークリッドの定理を引き合いに出す、あの時のジェレミーのホームズも印象に残っています。話しながら化学実験台の椅子に腰をおろして、装置を点検するように視線をずっと動かしていきながらのユークリッドの台詞でしたね。

ところで「ユークリッド幾何学の第五定理」って、皆様ご存知でいらっしゃいますか。私、わかりませーん!多分これのことだと思うのですが。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%A1%8C%E7%B7%9A%E5%85%AC%E6%BA%96
なぜここでホームズがこれを例に出したか、多分いろいろな人が推測しているのでしょうね。

それについてはシャーロッキアンにおまかせすることにして、私に推測できることは、ジェレミーは数学がものすごく得意な科目というわけではなかったのだろうということ、知らないことはすぐ質問するたちだったということ、そして引用部分の最後にもあるように、ホームズだけではなくジェレミーもグラナダシリーズの構成担当もプロデューサーも、ホームズと彼が扱った事件がどのように語られるかについて、皆それぞれに一家言を持っていて、現場ではたくさんの議論が行われただろうということです。

RM
前々回前回とで引用した"Women in My Life"というタイトルの記事からもう少し。これは1988年か1989年のインタビューで、"Woman's Journal"という雑誌かららしい、ということは前々回に書きましたが、くわしいことは不明です。引用箇所はJoan Wilson(ジョーン・ウィルソン)の死の後のことで、ここに引用した内の後半部分は"Bending the Willow"にも引用されていましたが、この本にも出典は記されていませんので、やはりくわしい書誌情報はわかりません。

中で"Annie"(アニー) とあるのは、最初の奥様のAnna Massey(アナ・マッシー)です。

二度目の妻のジョーン・ウィルソンが1985年7月にガンで亡くなった後、僕のこころはつぶれてしまいました。自分がいつも他の人に助言するようなことを誰かから言ってもらっても全然聞き入れないで、妻の死を悲しむ時間を自分に与えませんでした。(中略)とうとう精神的にひどい状態になって、Maudesley病院に10週間閉じ込められました。(中略)その頃は特に息子のデイビッドには辛い日々でした。そしてその時アニーが、僕に会いに病院に来るデイビッドを車で何度も送ってくれたのを決して忘れません。アニーは外で待っていました。病室に入って僕の気持ちを動揺させたくなかったのです。彼女の大きな愛です。

After my second wife Joan Wilson died of cancer in July 1985, I just cracked. I ignored all the advice I usually give to other people and didn't allow myself time to mourn. [...] And finally I had a dreadful breakdown and I was locked up in the Maudesley for 10 weeks. [...] It was particularly hard on my sun David. And I shall never forget that Annie used to drive him to the Maudesley to visit me. She would wait outside for him because she didn't want to come in and upset me. That's love.



引用部分の前半、自分が誰かになら本心から言ってあげられることも、自分には言ってやれないこと、ひとの言葉を聞き入れないこと、ありますね。ああ、本当だなあと思いながら読みました。私は自分に甘いほうだと思うけど、でも肝心のところで、時を信じて時にまかせることができなくて、自分の気持ちを追いつめてしまうことが、日々の生活の中であるのを思いました。ひとにならそう言ってあげられるのに。そしてジェレミーが誰かの肩を抱きながら、そう言ってあげているところを想像しました。

後半、ジェレミーの最初の奥様、アナの細やかさを感じます。アナとジェレミーは性格の上で正反対だった、と息子のデイビッドが言っています(「Anna Masseyの自伝と、Penhaligonのバスオイル」)。アナの自伝を読んでもそれが感じられて、アナは内向的で思慮深い性質だったように、私はみています。また、精神的に苦しんでながく心理療法を受けていたようで、子供の頃からのこころの傷があって、拒食症や舞台恐怖にも苦しんだそうです。論理的な思考をするタイプでもあったのでしょう、1961年のDesert Island Discsでは、無人島に持っていく本として数学の本を選んでいますし、ジェレミーと離婚した26年後に再婚した相手のひとは、理系の学者(冶金学者)でした。そしてアナの声は本当に素晴らしくて、知性を感じさせる落ち着いた声です。BBCのウェブサイトのiPlayerで何度か聴くことができた"This Sceptred Isle"という番組は、イギリスの歴史を語るプログラムで、私には難しすぎてほとんどわからなかったのですが、アナのナレーションのために時々きいていました。

私はジェレミーやジョーンよりも、アナに近い性質だと自分のことを思っています。あ、思慮深いとか、声が素敵とか、そういうことではないんですよ。内向的だという意味です。だからアナの自伝も私にはとても興味深いものでした。そして、ジェレミーが入院した時のアナのこころ配りが、いかにも彼女らしいと感じられました。

それと同時に、そのアナの気持ちがわかって、それを彼女の愛だと言えるジェレミーにも、ああジェレミーらしいなあと思いました。この元夫婦は苦しい時をこえて、このような形でお互いを尊重できる関係を育ててきたのですね。

RM
前回の続きで、ジェレミー自身とジェレミーのお母様の乳母だった、Ellen Clifford(エレン・クリフォード)を回想している部分の後半を引用します。記事のタイトルは"Women in My Life"で、前回の追記2に書いたように掲載年は1988年か1989年ですが、正確なところはわかりません。

1950年代後半にエレンと母は、地元の映画館に「戦争と平和」に出た僕を観に行きました。映画は4時間くらい続いて、終わったとき母が「さあエレン、出ましょう」と言ったのですが、エレンは「いいえ奥様、わたくしはもう一度観ます、ジェレミー坊ちゃまが出ているんですもの。」そんなエレンが大好きでした。

In the late 1950s she and my mother went to the local cinema to see me in the film version of War and Peace. It lasted four hours or something. At the end my mother said, "Right Ellen, let's go," and Ellen said, "No 'm, I'm going to watch it once more for Master Jeremy." I adored her.


"Women in My Life," Woman's Journal [date unknown]

エレンは銀幕にジェレミー坊ちゃまを観て、幸せだったでしょうね!いえ、幸せというより、ハラハラドキドキだったでしょうか。もう一度最初からゆっくり、観たかったのでしょうね。それにしても、あと4時間とは!

「戦争と平和」は1956年公開の映画で、ジェレミーはオードリー・ヘプバーンのお兄さんの役でしたね。公開時にはジェレミーは22歳か23歳です。

IMDbによれば208分(3時間28分)、長いですね!映画館では途中で休憩がはいって、全部で4時間くらいかかったかもしれません。私もDVDを持っていますが、ジェレミー出演シーン以外は早送りしたり、他のことをしていてちゃんと観ていないことを告白しておきましょう。

ジェレミーを赤ちゃんの頃から育てた二人の女性が、映画館の席に並んでスクリーンのジェレミーをみつめている様子を想像できます。

備忘録もかねて、ジェレミーのお母様がその頃何歳だったか、書いておきましょう。家系検索ができて家系図を作れるサイト Ancestry.comによれば、お母様は1903年11月9日生まれなので、この時52か53、エレンはそのお母様の乳母だったのですから、70にはなっていたでしょうか。
http://records.ancestry.com/elizabeth_edith_butler_records.ashx?pid=80310016

このサイトは有料会員になるといろいろな資料にアクセスできるのですが、私はそうではないので、この生年月日の根拠となった資料はわかりません。ただ、何かのインタビューでジェレミーが、両親ともに自分と同じ蠍座だと言っていたので、それと合っています。ちなみにお父様のページはこちらです。
http://records.ancestry.com/h_william_huggins_records.ashx?pid=146375948

ジェレミーのお母様が亡くなったのは、上記サイトでは1959年11月10日となっていて「戦争と平和」の公開から3年後です。この日付は、ジェレミーが1994年のドキュメンタリーで「母は1959年に自動車事故でむごい死をむかえ、そのことに対して私はとても怒っていました。息子はその時まだ3ヶ月でしたから」(「ハムレット(1961年)に関する記事から;その3」参照)と言っているのと合っています。この日付が正しければ、お母様が事故で亡くなったのは56歳の誕生日を迎えた次の日だったのですね。

乳母のエレン・クリフォードが亡くなったのがいつかは、今のところよくわかりません。"Berkswell Miscellany, Volume V"の中の、ジェレミーが著者のグループに話した内容をもとに書かれた章には、こう記されています。

乳母のクリフォードは引退してBournemouthに住み、Mrs. Crowhurstがその世話をしたが、彼女も今はここBerkswellで、ジェレミーの父・ハギンズ大佐のすぐ近くに眠っている。

Nanny Clifford retired to Bournemouth, where she was taken by Mrs. Crowhurst, but she too is buried here at Berkswell, very near to the Colonel.


Berkswell Miscellany, Volume V
By Members of 'The Offshoot Group' of Berkswell Local History Research Group

ジェレミーも、ジェレミーを慈しんで大切に育てた二人の女性も今は亡く、霧のはるか向こうにいるようにも思えますし、思いの外近くにいるようにも感じられます。


そして今日は8月7日、Edward Hardwicke(エドワード・ハードウィック)のお誕生日です。ワトスンの誕生日も1852年の今日という説があるそうで、これは一昨年ナツミさんに教えていただきました。昨年の記事にワトスンの誕生日について書いてあるサイトのアドレスをのせています(「Edward Hardwicke のお誕生日です」)。今日という日にグラナダ版が大好きでジェレミーが大好きな私から、エドワードに「おめでとうございます」と「ありがとうございます」の言葉を捧げます。


私にとっては、今日はここをはじめて4年目の日でもあり、5年前の今日、夜があけて空が明るくなるころ、ジェレミーの死の時を思って、悲しみにこころもからだも全てをつかまれて、ただ泣いて泣いて、泣きおわった時に世界の風景が変わっていたという、思い出の日でもあります。あの時、自分の表層の意識と自分の奥の奥の本当の私がつながったのだと思います。死によってからだとこころが失われる時にも失われない何かが、自分にも誰の中にもこの世界にもあることを感じたのだと思います。ジェレミーがそのきっかけだったのは言ってみればただの偶然で、でも偶然、あるいは今では必然となったそれを5年前に頂いたのはなんと有り難いことだろう、と何かに感謝したい気持ちです。お天道様に感謝、という言い方でもいいのかもしれません。そしてやっぱり、ジェレミーにもこころからの感謝を。

RM
このブログはジェレミー・ブレットに関するブログではなかったのかしら?と思われるかたもいらっしゃったりして。と言う訳で、ジョーン・ウィルソンに関してまだ書きたいことはあるのですが、ちょっとお休みしてジェレミーのことを。いえ、もちろん私も、このあたりでジェレミーのことを書きたくなったんです。

今日引用するのは、ジェレミーはお母様だけでなく、乳母からも愛されて育ったのね、と微笑ましくなるエピソードをジェレミーが語っている部分の前半です。

なお、今回から引用部分を枠に入れます。私の環境(少し古めのMacとChrome)では引用部分の文字の色が他とちゃんと違っているのですが、他の環境(Windowsと一部のブラウザの組み合わせ)ではどうも区別がつきにくい場合もあるようだということに気がつきました。これから少しずつ過去の記事も同様にしていきます。その上私が見慣れないせいもあるかもしれませんが、私のブログ、Windowsではすごーく読みにくくありませんか?素朴な感じが好きで選んだブログのテンプレートが、だいぶん昔のものであることも理由の一つかもしれません。そういうわけで、読みにくくて、それでも来てくださっているのでしたら、本当にどうもありがとうございます!テンプレートを変えることも考えていますが、愛着があることもあって迷っています。

それでは本題にもどって...。記事の題は"Women in my life"ですが、掲載誌も掲載年月日は直接にはわかりません。しかしThe University of Minnesotaのウェブサイトに"The Universal Sherlock Holmes"(1994) という本のウェブ版があって、 そこの文献目録の中に

Brett, Jeremy. "Women in My Life," Woman's Journal [date unknown]

とありますからおそらくこれで、掲載雑誌名だけはわかりました。このインタビューの中で自分は54歳だと言っているので素直に計算すると掲載年は1986年か87年なのですが、ご存知のように生前一部の資料では生年は1935年となっていたので、これを元にすると1988年か89年の掲載、でも1938年生まれと書いてある切り抜きに平気で(?)サインしてあげたりもしているし、結論としては「掲載年はよくわかりません」ということなのです。ちなみにジェレミーは、1933年11月3日生まれと正しく言っているインタビュー(たとえば1991年の"When I was a child")もありますので、一貫して年齢を若く言っていた訳ではなく、元来あんまり数字にはこだわらないたちなのではないかと思っています。ジェレミーが言う二度目の結婚の年も三種類ありますし。(この記事の一番下、追記2に書きましたが、1988年か1989年のインタビューだとわかりました。)

それでは今日のところの引用です。「僕の人生に大切な女性があと二人います」と言ってお母様のことを話し、そのあとナニー(乳母)の思い出を語ります。

そして、懐かしいナニーのEllen Clifford(エレン・クリフォード)がいました。エレンは以前は母の乳母で、僕たちの家族と53年間一緒にいてくれました。彼女はJudi Dench(ジュディ・デンチ)のように、ちょっとコテージパンにみえるような体型で、よく麦わら帽をかぶって糊のきいたエプロンをしていました。ひとことで言えばナニーと僕は恋人どうしのようだったんです。まだ僕がとても小さかった時、エレンは同じ部屋で眠っていましたから。だからエレンの素敵なコルセットと下着のことも全部知っていて、ボタンをとめるのを手伝ってあげていました。

And then there was my old nanny—Ellen Clifford. She was my mother's nanny before she was mine and she was with our family for 53 years. She was a little cottage-loaf shape like Judi Dench and she used to wear straw hats and starched aprons. Basically nanny and I were like lovers because when I was very small she used to sleep in the same room with me. So I kew all about her fascinating corsets and combinations. I used to help her do them up.


"Women in My Life," Woman's Journal [date unknown]


ジュディ・デンチについてはこちらで少し触れました。
Puss in Boots のオーディオブック (1972)
なおジュディ・デンチは1934年生まれですから、ジェレミーの1歳下で、ジェレミーと同じThe Central School of Speech and Dramaで学んでいます。WikipediaによるとVanessa Redgraveと同級ということですから1954年入学で、ジェレミーとは入れ替わりですが。

cottage-loaf(コテージパン)って、丸い山を二つ重ねたような、こんなパンだそうです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Cottage_loaf
ジェレミーったら、女性の体型を言うときは、注意してくださいね!愛情表現だとわかっていますが。

エレンは元はお母様のナニーだったのですね。ジェレミーとエレンが恋人どうしのようだったというのは、ジェレミーはナニーがいなければ夜も日も明けぬ、ナニーはジェレミー坊ちゃまのことなら、なんでも可愛いという感じだったのでしょう。昔の小説か映画をみるようです。

なお、ジェレミーの小さい頃の写真に関しては、以前こちらに書きました。写真はLiveJournalのファングループ"For fans of Jeremy Brett"と、りえさんのブログでみることができます。
子供の頃の写真(馬とともに)

LiveJournalのページでご説明すると、ナニーは3枚の写真でジェレミーと一緒にうつっていますが、ジェレミーがすっごくかわいいのは上から9枚目の写真。クリックした後、"original"をさらにクリックすると最大になります。ジェレミーの向かって左がナニーだそうです。ジェレミーはあんまり可愛く写ってないけど(!)、エレンのからだつきと帽子がよくわかるのが上から13枚目。これも同様にクリックして"original"をさらにクリックすると最大になります。コテージパンの体型、なるほど、です。

次回はジェレミーがエレンのことを話している後半部分を引用するつもりです。

RM

追記:そうでした、Dame Judi Denchも「ジェレミーにBAFTA賞を!」の活動に、賛同のサインをして下さっていたのでした。
http://www.thestage.co.uk/reviews/review.php/33614/a-bafta-for-jeremy-brett
そのことだけで、この英国の名女優に親近感を持ってしまいます。

追記その2:よく読んだら、"The Secret of Sherlock Holmes" の公演中、と書いてありました。ということは1988年か1989年のインタビューです。
今回は、Joan Wilson(ジョーン・ウィルソン)の写真がある場所をいくつかご紹介します。

ジェレミーと一緒の写真は、現在知られているのは1枚だけだと思います。こちらでご紹介しました。
「四つの署名」撮影時の写真と、Joanとの写真

このジェレミーと一緒にうつっている写真は、ジェレミーが亡くなった時にPBSが放送した追悼番組内でうつしだされた写真を、スクリーンショットとしてとらえたものです。もともとは2007年に"For fans of Jeremy Brett"に、あるファンがアップロードしてくれました。
http://jeremybrett.livejournal.com/79332.html

同じ番組で、ジョーンだけですけれども写っている写真もみることができて、それも上記の"For fans of Jeremy Brett"のページにあります。

二人でうつっているのは、ジョーンがプロデューサー、ジェレミーがホストをつとめたテレビシリーズ"Piccadilly Circus"(1976)のセットでの写真です。ジェレミーは40代前半ですね。ちょっと恥ずかしげで、でもうれしそうなジョーン、その肩をしっかりと抱き寄せているジェレミー。何度みても微笑ましい感じがします。

ジョーンだけでうつっているのは、テレビ局の調整室のような感じの部屋です。敏腕プロデューサーの仕事場の一つですね。

同じ"For fans of Jeremy Brett"への2011年の投稿に、別の2枚の写真があります。
http://jeremybrett.livejournal.com/289647.html


次にご紹介したいのは、WGBHでジョーンと同僚だった人のブログの記事に掲載された写真です。

http://wgbholdtimers.blogspot.jp/2010/09/classic-theatre-1975.html
こちらの記事のタイトルは「1975年"Classic Theatre"」で、"Classic Theatre"のために当時つくられた番組ガイドが載っています。そのガイドの文章もジョーンによるものです。このシリーズの番組を選ぶために100本以上をみました、それぞれの番組に先立つ30分の紹介番組も楽しんでください、その中ではロンドンで収録された、主要な俳優へのインタビューも観ることができます、と書かれています。ジェレミーがジョーンと最初に出会ったのも、"Classic Theatre" で放映される "The Rivals"の出演者の一人として、プロデューサーのジョーンと語る場面で、4分の収録のために話し始めて2時間半カメラの前で話し続けたと言っていました(「ジェレミーの悲しみと、あたたかさ(4); 1991年のDesert Island Discsから(1)」)

このガイドに載っている彼女の写真もとても素敵です。

http://wgbholdtimers.blogspot.jp/2010/09/classic-theatre-shoots-1975.html
こちらには「1975年"Classic Theatre"のための撮影」というタイトルで、ジョーンがEric Porter(エリック・ポーター)にインタビューをはじめる直前、マイクを胸につけてもらっている写真が載っています。エリック・ポーターと言えば、グラナダ版でモリアーティを演じた俳優ですね。彼の顔はうつっていますが、残念ながらジョーンの顔はよくみえません。でもジョーンの美しい、そして堂々とした雰囲気はわかります。

http://wgbholdtimers.blogspot.jp/2010/09/wgbh-radio-drama.html
こちらの2枚目にも、ジョーンが写っています。


そして、ウェブサイトBrettish Empireのこのページの、上から4枚目、これも好きな写真です。
http://www.brettish.com/later-stages.html


今日はジェレミーの2度目の奥様のジョーン・ウィルソンの写真を何枚かご紹介しました。写真をみることで、彼女の雰囲気をいくらかでも感じることができる気がします。

RM

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Author: RM
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