Jeremy のことが知りたくて ~ ジェレミー・ブレット(Jeremy Brett)を愛するかたへ

英グラナダ・テレビでシャーロック・ホームズを演じた俳優の人生を言祝いで

この数回で、The IndependentとDaily Mailというイギリスの二つの新聞に載った追悼記事を引用しました。前者は高級紙、後者はタブロイドと呼ばれる新聞ですが、どちらも私はよい記事だったと思います。

前回の引用部分で、多くのひとがいまだにstigma(社会から恥ずかしく不名誉だと烙印を押される事柄)ととらえている精神疾患のことを、ジェレミーは公の場で語った、と書かれていましたが、性的少数者であることも当時は、そして残念ながら今でも社会のいろいろな場面で、stigmaの一つとなっていると言えるでしょう。

ジェレミーがもう少し長く生きていたら、性的少数者であることも公の場所で語ってくれたのではないかと私は思っています。残念ながらその時間がジェレミーには残されていませんでした。ですから本人が語っていないことを「事実」として書くことは第三者にはできません。でも私はいくつかの記事で書いたように、ジェレミーは性的少数者だったと思っています。
この世を去る時まで続いたGary Bondとの友情
Anna Masseyに感謝したいこと
入院

今の私にとってはジェレミーはバイセクシュアルだったのだろうと考えていることはなにか特別なことではなく、ただ、それに触れている、新聞に掲載されたジェレミーの追悼記事をもう一つご紹介しようとしているだけです。

私が知っている限りひとつだけ、ジェレミーがバイセクシュアルだったと追悼記事で書いている新聞があって、このことはなぜか英語圏のジェレミーのファンの間でも、1995年当時から今までほとんど見落とされてきました。1997年にあの、信用ならない記述を多く含むTerry Mannersの本が出て、そこにジェレミーがバイセクシュアルだと書かれていたとき、多くのファンはこれも信用ならない記述のうちの一つだと思いましたが、実はその前にいわゆる「高級紙」であるThe Guardianに、ジェレミーはバイセクシュアルであると書かれていたのです。

この追悼記事の筆者(後で述べますが、演劇評論家)にとってもこの「高級紙」にとっても、誰かが性的少数者であることは、書くのをためらうべきゴシップではなかったのですね。これはうれしいことです。そして演劇関係者でジェレミーと親しいひとにとっては、このことは別に秘密ではなかったのだと私は推測しています。普通にさらっと書かれています。

現在では性的少数者であることをごく普通にとらえることができるひとが増えてきたのは、偏見の中にいたひとたち、社会的に成功したひとたち、影響力のあるひとたちが声をあげてくれたおかげでしょう。ジェレミーももう少し長く生きていたら、その一人となってくれたのではないかと想像しています。


以下が追悼記事からの引用です。引用に先立つ部分でジェレミーの親友、俳優Robert Stephens(ロバート・スティーブンス)の言葉が紹介されたあと、ここでは演劇評論家Michael Coveneyの言葉が書かれています。"Michael Coveney writes: " とありますので、これはこの新聞の求めに応じて文章を送った、その内容ということだと思います。Michael Coveneyはロバート・スティーブンスが自伝(Knight Errant: Memoirs of a Vagabond Actor, 1995年出版)をまとめるのを手伝っていて、ここで書かれているのもロバートの自伝のためにジェレミーと会ったときのことでしょう。

OBITUARY: JEREMY BRETT; Dark Sherlock
By John Ezard, Robert Stephens, Michael Coveney, Michael Cox
The Guardian, 14 September, 1995

Michael Coveneyはこう書く:(略)ある点では奇妙な二人組だった。スティーブンスはとりとめなく話す、女好きの、単純でわかりやすい、ブリストル出身の田舎もの、ブレットはバイセクシュアル、上流中産階級出身で軍人の息子だった。二人は劇場に逃げ場所を求めていた。二人がいるところはどこでも、最高の笑いとわくわくした気持ちがあふれていた。

スティーブンスが1970年代に感情面でのトラブルに見舞われたとき、ブレットは必ずいつも彼を助けて支えた。今年のはじめにブレットから話をきいたとき、スティーブンスのことを話す彼の目には、スティーブンスへのやさしい気持ちで涙が光った。彼は私の言葉をこう訂正した。やさしい気持ちなんてものじゃない、愛だよ、と。

Michael Coveney writes: [...] In some ways they were an odd couple: Stephens the rambling, womanising, uncomplicated country boy from Bristol; Brett the bisexual scion of an upper class military background. Both sought escape in the theatre, both filled any room they entered with laughter and high spirits.

Whenever Stephens was in emotional trouble in the seventies, Brett never failed him. Talking about Stephens earlier this year, his eyes filled with tears of affection. Not affection, he corrected me as we spoke; love.


ロバート・スティーブンスとジェレミーについて、そしてジェレミーがロバートを支えた時のことは、以下の記事でも書きました。
Robert Stephens のベストマンをつとめた時の写真
ジェレミーのギターと歌

ジェレミーがロバートのことを筆者と話したときには、すでにロバートは病気で、彼が亡くなったのはジェレミーが亡くなったちょうど2ヶ月後でした。

RM
前回から続きます。この追悼記事の最後の3段落です。

The star who died of a broken heart
By Shaun Usher
Daily Mail, 14 September, 1995

数日前には、いまだに多くのひとが恥ずかしい不名誉なことだととらえる、あることに関して、ブレットはラジオで語った。"The Week's Good Cause"(今週のチャリティ)の番組で、躁鬱病(双極性障害)のひとを支援する会、躁鬱病患者友の会のための寄付を呼びかけたのだ。

ブレットは、自分はこの病気に打ち勝ったという言い方はせず、援助と治療によりこの病気をコントロールできると信じていると語った。

その通りだったかもしれないが、実際には精神の病より以前からあった心臓の障害に、再びみまわれてしまったのだ。

Just a few days ago, 'going public' on something people still perceive as a stigma, he made The Week's Good Cause radio appeal on behalf of the Manic Depression Fellowship, a group of providing support to sufferers and their friends.

Brett did not claim to have beaten manic depression; simply hopeful that with help and treatment he could control it.

He may have made it, but for the re-emergence of the heart trouble which had been with him for longer than the depression.


"The Week's Good Cause"でのジェレミーの言葉については、以前こちらに書きました。
The Week's Good Cause (1995) その1
The Week's Good Cause (1995) その2
The Week's Good Cause (1995) その3

上の記事でジェレミーが語ったこととしてあげられている内容は、ジェレミーのこの言葉に対応するのだと思います。「The Week's Good Cause (1995) その3」でご紹介しています。

俳優として成功をおさめたことで、自分がこの病気にかかっていることを公に認める勇気を持つことができました。この病気のために仕事をやめなければならないようなことにはならず、満ち足りた成功した人生をおくっていると伝えて、同じ病気の人を力づけるために。この病気は治療し、対処することができるものなのです。この病気は来ては去って行くものであり、症状が一時的にあらわれる期間以外は健康にすごせるのです。

And it is my success which gave me the courage to admit publicly that I had this illness as an encouragement to others that It had not stopped me from being employed and leading a fulfilled and successful life. It is an illness which can be treated and managed. It comes and goes and in between the bouts of illness people are well.


精神の病にかかっていることは、ひとにはいえない恥ずかしいことだ。当時は今よりさらに、そういう偏見があったことでしょう。そのような中でジェレミーは自分が双極性障害にかかっていることを、それまでも話していましたが、こうしてラジオで当事者の一人として語って、患者を勇気づけ、治療をうけることをすすめて、ラジオを聴いているひとからの寄付も募ったのがなくなる直前だったこと、そのことにもこの追悼記事が触れていることをうれしく思います。


今回この記事を書くために、上で三つあげた、2011年に自分が書いた文章を読んで、その頃にあったこと、その頃の気持ちを思い出しました。またその数年前に、秋から冬にかけて毎週月曜日の朝早く、ある建物の5階にいて、空を見ながらジェレミーの"The Week's Good Cause"での言葉をイヤホンからきいていたときのことも思い出しました。自分の私的なことはほとんど書いていないつもりのこのブログが、思い出を呼び起こしてくれます。

RM

追記:2011年の記事で、この放送の録音がきけるサイトとして、今はなくなってしまったJeremy Brett Informationのアドレスを書きましたが、以前お知らせしたとおりこのサイトの内容はInternet Archiveに残っています。
こちらからどうぞ。
https://web.archive.org/web/20160316141800/http://jeremybrett.info/media.html
音声ファイルのダウンロードの方法と注意は、2011年の記事に書いたのとかわりません。
前回の引用部分のちょうどすぐ後からです。

The star who died of a broken heart
By Shaun Usher
Daily Mail, 14 September, 1995

「私が何か言いかけたら、妻は同じ気持ちですぐに後を続けるような、そんな私たちでした。誰かの目をみるとその心の中までわかるような、生まれたときからそのひとのことを知っているような、そんな経験をすることがあるでしょう。私たちはそんなだったのです。」

'This was the kind of relationship where I would start a sentence and she would finish it. Sometimes you can see behind somebody's eyes and feel as if you have known them all your life. That's how it was.'


この部分もジェレミーのファンサイトなどでよくみます。そういう奥様がこの世からいなくなってしまって、姿をみることも声をきくことも、その手に触れることも抱きしめることもできなくなってしまった。

記事ではこのあとJoan Sullivan(ジョーン・サリバン)の死に触れたあと、以下のようなジェレミーの言葉の引用が続きます。

「悲しむ時間を自分に与えませんでした。自分のことを二の次にしたくて、そして妻が亡くなったことで、自分を哀れんでとてつもない怒りを感じた、その感情を忘れたくて、ただただ働きました。」

'I gave myself no time to mourn,' he said, 'deliberately overworking in order to forget about myself and the sheer, self-pitying anger I felt at my wife's death.'


そして、精神の病で入院したことが書かれます。

「脳の働きがおかしくなりました」彼は淡々と答えた。「世界の色がかわって、すべてがピンクか白になりました。」

'My brain just went,' he confessed matter-of-factly. The world changed colour, everything pink or white.'


退院後の言葉です。

「精神の病から回復した自分のこと、そしてその間、辛いときをすごしながら私をつれもどしてくれた家族や親しいひとたちのことをとても誇りにおもいます」と当時ブレットは語った。

'I'm proud of myself for recovering and proud of those close to me, who went through hell to bring me back,' Brett said at the time.


このあと、記事ではジェレミーの経歴が書かれていて、子供のころの病気が原因で心臓が肥大したこと、Hugginsの名前が使えなかったこと、俳優としてのキャリアの途中での南アメリカ放浪の旅のことにまで触れています。こういうところや、ジェレミーの言葉の引用を読むと、タブロイド紙ではありますが丁寧に描かれた記事という印象を持ちます。

次回は多分、この記事の締めくくりのところを引用します。

RM
前回と同じ、Daily Mailからの引用です。前回もお断りしましたが、これはタブロイド紙の一つに書かれたものですが、扇情的で信用ならない追悼記事だとは思いません。私はこの記事はジェレミーを好きな人が書いたように思えます。

出典は書かれないまま(知らないまま)、ジェレミーのファンサイトなどで多く引用される部分を含んでいます。今日はその前半部分です。

The star who died of a broken heart
By Shaun Usher
Daily Mail, 14 September, 1995

最初、ジェレミー・ブレットとJoan Sullivan(ジョーン・サリバン)の二人は、ロサンゼルスのサンタモニカ丘陵にあるあのハリウッドサインの「Wの字のちょうど下に」住んでいた。ブレットは最高にすばらしい女性と出会ったことをよく知っていた。妻を短く描写するとき、「Wild and wonderful(並外れていて最高)」と好んで言っていた。「We had a once-in-a-lifetime love.(一生に一度だけの愛を私たちは得たのです。)信じられないほどすばらしい、妻として最高のひとでした。」

At first they lived in Hollywood, 'right under the W in that sign'. Brett knew he had found a woman in a million, 'Wild and wonderful,' was his fond summing-up. 'We had a once-in-a-lifetime love. She was an incredible person, the best wife a man could have.


和訳のなかに"Wild and wonderful", "We had a once-in-a-lifetime love."の言葉を残しましたが、特に後者はジェレミーのファンページなどでも目にしますので、ここであらためて引用してみました。

ジェレミーが二度目の奥様をどんなに愛していたかは、ジェレミーの言葉の端々に出てきますが、これらの言葉からもそれを感じます。

これに続く部分を次回ご紹介するつもりです。

RM
前回、死亡記事・追悼記事の一つから引用しました。

他にネットで読めるものを、覚書の意味でいくつかあげておきます。
The New York Times
http://www.nytimes.com/1995/09/14/obituaries/jeremy-brett-an-unnerving-holmes-is-dead-at-59.html
The Washington Post
https://www.washingtonpost.com/archive/local/1995/09/16/actor-jeremy-brett-dies-at-59/507789b9-56e1-4f82-8490-4f5e43e923ce
Los Angeles Times
http://articles.latimes.com/1995-09-14/local/me-45667_1_sherlock-holmes
The Telegraph
https://groups.google.com/forum/#!topic/alt.obituaries/wKV5AE_WGkA
The Daily Gazette (The Associated Press配信記事)
http://news.google.com/newspapers?id=J3xGAAAAIBAJ&pg=3268,3188265

今日引用したいのは、ネットでは読めないのですが、Daily Mailの記事です。Daily Mailはイギリスのタブロイド紙の一つで、信用性や扇情的な書き方で問題になることもあるときいていますが、この追悼記事は私はよい記事だと思います。書いたひとがどういうひとかがわからないのですが(名前は後で記します)、ジェレミーの経歴、人生での出来事をいろいろと書いていて、他の追悼記事では見当たらないような内容もあります。

またジェレミーの言葉を多く載せています。ただ一部はかつてジェレミーが筆者(あるいはこの新聞)に語ったものだとしても、他の印刷物から引用しているものも多そうですが、引用元は明らかにしていません。もっともThe Television Sherlock HolmesやBending the Willowを読んでいても、出典が書かれていない引用に時々気がつきますから、タブロイドだからというわけではなさそうです。

今日の引用部分は「彼は二度目の妻を亡くした後、双極性障害に苦しんだ」とある、その後からです。

The star who died of a broken heart
By Shaun Usher
Daily Mail, 14 September, 1995

ホームズも敬服するような率直さで、ジェレミー・ブレットは、ホームズを演じ続けることだけが自分を生かしてくれていると言った。

その言葉をきいたなら反対したであろうひとも多くいたようだ。水曜日に心臓病のため59歳(原文ママ)で亡くなったとき、彼はホームズにあまりに没頭して力を吸い取られて、うつ状態になりやすくなってしまったのだ、と言う友人もいた。

ワトスンを演じたエドワード・ハードウィックは昨日こう語った。「最後のシリーズでは具合がとても悪くて、ジェレミーの強さが試されるような状況でした。でも最後まで戦い続けました。俳優としてはたらくことが何より大切で、撮影の現場にいるのが一番幸せ、というタイプの俳優だったのです。」

He said, with a clarity that Holmes would have admired, that only his acting kept him alive.

There are many who would have disagreed with him. When he died on Tuesday of a heart condition, at 59 [sic], some friends said his total absorption into the role of Holmes had drained him of energy and left him vulnerable to depression.

His co-star as Dr Watson, Edward Hardwicke, said yesterday: 'Jeremy was quite ill in the last series. It was a real test of strength for him, but he battled through. He was an actor who needed to work and was at his happiest on set.'


ジェレミーが率直に病気のことを語るのは、何度かここでもご紹介しています。「ホームズも敬服するような率直さ」という表現はなかなか興味深いです。

ジェレミーが双極性障害に苦しめられたのはホームズのせいだ、とか、あんなに健康状態が悪くなってまで、なぜ無理をしてホームズを演じたのか、演じさせたのか、という声をきくことがあります。

でもわたしは、演じることが、仲間とともに作品をつくることが何より好きで、ホームズをどう表現するかに没頭したジェレミーが、最後まで見事に戦って、からだもこころもホームズを演じることに捧げたことを称賛したいと思います。エドワードが言ってくれたように、ジェレミーは健康状態が悪くなってからでも、撮影現場にいるのが一番幸せだったのですね。

多分次回も、この記事から引用します。

RM
「次の週末はここをお休みするかもしれないし、ちょこっと書くかもしれない」と前回書きましたが、ちょこっと書きます。

ジェレミーが世を去ったとき、死亡記事・追悼の記事が新聞や雑誌に載りました。ネットで読むことができる記事も多くあります。

その中から一つご紹介します。イギリスの新聞The Independentに載った記事はここで読めます。

Obituary: Jeremy Brett
By Derek Granger
The Independent, 14 September, 1995
http://www.independent.co.uk/incoming/obituary-jeremy-brett-5649170.html

この中から私の好きな一文を引用します。この記事を書いた Derek Grangerはジェレミーが主演したHaunted: The Ferryman (1974) のプロデューサーだったようです。ジェレミーの仕事ぶりも、そこでの人への接し方も、よく知っているのでしょう。この一文を英語で声に出して読むと、そのリズムのなかにジェレミーのイメージがあらわれてくるようです。訳がむずかしいのですけれども。

ジェレミー・ブレットは感情が豊か、優しくあたたかで、友や仲間のことを深く気遣い、いつも自然に、そっくりそのままの感情を持っているように演技した。

Jeremy Brett, an emotional man of great warmth and generosity of spirit, cared deeply for his friends and colleagues and acted always spontaneously out of a seemingly full heart.


最後の"act"は「行動した」方かもしれません。「演技した」の方に訳したのですが「行動した」方でとるならば、「あふれんばかりの気持ちを持って行動した」という感じでしょうか。

*

生きていると、思いもかけないこと、こんなことにならなければよかったのにと言いたくなることが起こりますね。
後悔すべきことが別にないなら、残念だったねと自分に声をかけて、あとはひとにもものごとにも、まっすぐ静かに向き合いたいです。

ちょこっと思いがけないことがおきたけれども、予定どおり、ちょこっと短い旅に出ます。ではまた次の週末に。

RM
前回の続きです。

でもその前に、ジェレミーのお父様の写真をまだ見ていらっしゃらないかたはどうぞ。以前この記事にもアドレスを書きました。
アーチェリーに関する1989年の記事より(3)(でも脱線して、父との和解について)

For Fans of Jeremy Brettという今は投稿が止まってしまっているファン・フォーラムの、このページにあります。お父様の写真は4番目で、Berkswell Miscellany, Volume Vからです。
http://jeremybrett.livejournal.com/74806.html

以前は写真をクリックするとその写真の拡大版が自動的に開いたのですが、仕様の変更で、投稿者の写真アルバムが開くようになってしまいました。上から4番目の写真の拡大版はこちらです。顔がはっきりとは見えないのが残念ですが、隊員たちから尊敬された大佐の雰囲気は感じられますね。


さて、Berkswell Miscellany, Volume Vから、前回の続きの箇所の一部を引用します。

1989年6月4日、第120連隊英国砲兵隊で存命のメンバーのうちの多くや、隊員の妻や家族が、Berkswell(バークスウェル)のReading Roomをいっぱいにした。連隊発足50周年を記念しての再会である。バークスウェルが集合の場所に選ばれたのは、この村にハギンズ大佐と夫人が住んだからだ。再会の場には大佐の4人の息子のうちの3人と、大佐の孫のうちの二人も集まった。(中略) その集まりの中で、大佐の息子のJohn, Patrick, Jeremy (Brett) が、銀のトレイを連隊の隊員たちに返還した。大佐の引退の際に隊から大佐へ贈られたものだ。(中略)

その後教会の庭で大佐の墓に花輪が捧げられ、そこで隊員たちを村人が迎えた。ハギンズ家の友人や、昔ハギンズ家で働いていた人たちも集った。この日の最後に夕べの祈りがバークスウェル教会で捧げられ、気持ちをこめて賛美歌が歌われた。聖書が読まれたうちの一箇所はジェレミー・ブレットによるものだった。

On Sunday, 4th June 1989, many of the surviving members of the 120th R.A.T.A., their wives and families, packed into the Reading Room at Berkswell for the 50th anniversary reunion. Berkswell was chosen for the rendez-vous as Colonel and Mrs. Huggins had made their home in the village since their marriage. Also present at the reunion were three of the Colonel's four sons and two of his grandsons. [...] During the afternoon,  Colonel's sons, John, Patrick and Jeremy (Brett) handed back to the Old Comrades a silver tray which the regiment had presented to the Colonel on his retirement. [...]

Later there was a wreath-laying ceremony at the Colonel's grave in the churchyard when members of the regiment were joined by villagers and also by friends and former employees of the Huggins family. The day concluded with Evensong in Berkswell Church at which the hymns were sung with great exuberance and one of the lessons was read by Jeremy Brett.


中で「Berkswell(バークスウェル)の Reading Rom」と書きましたが、この大文字ではじまる Reading Room はこの本に何回も出てきます。「図書室」ではなくて、村の集会所としてよく使われる建物のようです。写真はこちらです。
http://www.geograph.org.uk/photo/2591265
こちらに説明があります。
http://berkswell.org/map/reading-room

この集会所に、50年前に発足した連隊で大佐の指揮の元にあった隊員たち、そして大佐の息子たちや孫たちが集まりました。これを機に、記念の銀のトレイを元隊員たちに返そうとハギンズ家の人たちで話し合ったのでしょう。

銀のトレイを息子たちが返還したときの写真が、以前こちらでご紹介したものでした。
1989年 Berkswell での写真、兄たち・甥たちと共に

写真のアドレスをもう一度記しましょう。
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=10208831147110470

上の2月の記事では、「銀のトレイがどんな由来のもので、なぜこの時に大佐の息子たちによって返還されたかについては、また別の機会に書きましょう」としましたが、今回書いたのがその銀のトレイの由来と、この集まりの様子です。

教会に場所をうつして、ハギンズ家の古い友人たちや働いてくれていた人たちとも再会して、ジェレミーたちは懐かしい気持ちで昔のこと、両親のことを思い出していたでしょう。そして教会ではジェレミーは聖書の一節を読んだのですね。この集まりでジェレミーはどんな気持ちだったか、思いをめぐらせてみます。



そして1995年の9月12日はジェレミーがこの世を去った日です。今日から数日後の9月12日も私にとって小さな不安や小さな喜びが数珠玉のように連なった、ごく普通の一日でしょう。でもその中で、この世を去る時にジェレミーのこころのなかを静かに流れていったものはなんだったろう、と思うひと時がきっとあるでしょう。

RM

追記:お父様の軍隊での階級Colonelを「大佐」と訳していますが、ColonelはLieutenant-Colonel(中佐)の意味でも使われるそうです。この本ではざっとみたところ、終始Colonel Henry William Huggins, Colonel Huggins, the Colonelという書き方をしているので「大佐」と訳しましたが、たとえばイギリスの新聞The Independentの追悼記事では、Lt-Col H.W. Huggins(中佐)としていて、こちらが正しいのかもしれません。
http://www.independent.co.uk/incoming/obituary-jeremy-brett-5649170.html
前回の記事の引用元としてあげたBerkswell Miscellany, Volume V から、今度はお父様のことをお話しましょう。何回かこのブログで、お父様のことをジェレミーが話しているのを引用しました。たとえばこちらです。
父のこと; 1973年のTV Timesのインタビューより
父と子
アーチェリーに関する1989年の記事より(3)(でも脱線して、父との和解について)

ジェレミーが両親のことをきかれて、まず必ずと言ってよいほど最初に口にするのが、「父は有名な軍人、母はアイルランド人のクエーカー教徒」ということでした。軍人としてどんなかただったか、Berkswell Miscellany, Volume Vに書かれています。まずはこの本の導入部の一節からです。

ハギンズ大佐は第一次世界大戦で名誉ある勲章を受けた軍人で、1939年に再び召集されて、新しく兵士を募って訓練をして、連隊を組織するように命ぜられた。第120連隊英国砲兵隊を3年間指揮したが、陸軍省の命により連隊の指揮から引退して訓練役のポストについた。

He was a much-decorated soldier in the First World War and was called on again in 1939 to recruit and train a regiment. He commanded the 120th Field Regiment, Royal Artillery, for three years until he reached the age when the War Office decreed that he could no longer command an active regiment and he was posted to a training position.


イギリスの軍隊組織のなりたち、その訳語がこれで正しいかなどよくわからないのですが、ここを読んではじめてわかったのは、二度の大戦に違った形で関わったということです。ジェレミーがよく、いくつものメダルをもらった有名な軍人だったが、友人を皆戦争で失った孤独なひとだった、と言っていたのは、おもに第一次世界大戦の時のことですね。そして第二次世界大戦がはじまった1939年には、若い志願兵を集めて連隊の指揮をとったのですね。

この本の本文にも、もうすこし詳しい記述があります。

1939年4月、ハギンズ大佐(その頃は少佐)は陸軍省から、連隊を組織するように命ぜられた。彼はこの地の地方新聞に知らせを載せ、Birmingham近くにある役所に情報窓口を設けて、人を配置した。二日間で、志願した600人が採用された。ほとんどがBirminghamとSolihull地域からだった。(中略)

連隊は1939年6月に正式に発足し、第120連隊英国砲兵隊となった。

In April 1939, Colonel (then Major) Huggins was asked by the War Office to raise a regiment. This he did—he placed advertisements in local newspapers and an information kiosk was manned near the Town Hall in Birmingham. In two days, 600 volunteers had been recruited, mostly from the Birmingham and Solihull area. [...]

The regiment was officially formed in June 1939 and became the 120th Field Regiment, Royal Artillery.


1939年6月ということは、ジェレミーは5歳ですね。

もう少し先も引用します。

大佐は隊員たちからとても好かれていた。そして自分ならやらない、自分にはできないようなことを隊員たちにやらせるようなことは決してない上司として尊敬を集めていた。ある時など、どんな地形か予想がつかない山腹をオートバイで駆け上った。その後で「言っただろう、私ができることなら、君たちだってできる」と言った。

The Colonel was very well-liked by his men and was respected as a man who never asked anyone to do anything he wouldn't do himself, on at least one occasion charging up the treacherous terrain of a mountainside on a motorcycle, afterwards saying—there you are, if I can do it, you can.


こういうリーダーとして尊敬を集めるようなところ、ジェレミーは誇りに思っていたのではないかと思います。そしてジェレミーもまた「天性のリーダー」だと、プロデューサーのMichael Coxから言われていました。("[H]e was a natural company leader" 「あたたかさと賢さ;The Ritual (1995) より」)


今日のところは訳すのが大変でした。特に軍隊組織に関する言葉の訳がまちがっていないとよいのですが。(多分)次回はこの連隊が発足して50年を記念して、ジェレミーを含むハギンズ家のひとたちと連隊のかつての隊員が集まった時のことに触れます。

RM

追記:お父様の軍隊での階級Colonelを「大佐」と訳していますが、ColonelはLieutenant-Colonel(中佐)の意味でも使われるそうです。この本ではざっとみたところ、終始Colonel Henry William Huggins, Colonel Huggins, the Colonelという書き方をしているので「大佐」と訳しましたが、たとえばイギリスの新聞The Independentの追悼記事では、Lt-Col H.W. Huggins(中佐)としていて、こちらが正しいのかもしれません。
http://www.independent.co.uk/incoming/obituary-jeremy-brett-5649170.html
前回、絵の話題からのつながりで、ジェレミーが小さい頃の家の様子を少しご紹介しました。

それと重なる内容が書かれているところを、Berkswell Miscellany, Volume V から引用しましょう。これは 'The Offshoot Group' of Berkswell Local History Research Group が著者となってます。在野の歴史研究家、あるいはアマチュアの郷土史研究家のグループなのだと思います。この号の特集ページが"The Huggins Family of Berkswell" (バークスウェルのハギンズ家)というタイトルで、ハギンズはご存知のようにジェレミーの苗字(本名)です。The Secret of Sherlock Holmesの楽屋でジェレミーの話をきいたという記述がありますから、この特集のかなりの部分は、ジェレミー自身が語ったことをもとにしているはずです。

この本については、りえさんがイギリスに住んでいらしたときに紹介してくださいましたね。りえさんがジェレミーの生家に向かう途中で会った方から、これを譲り受けたということでした。それに比べたら全然劇的ではないのですが、私もこの本を持っていて、私にとっては小さな奇跡です。

ここでMrs. Huggins(ハギンズ夫人)と書かれているのはジェレミーのお母様のことです。

放浪者とジプシー(ロマ)はハギンズ夫人を友達だと思っていた。放浪者は、ハギンズ家のお屋敷は親切にしてくれる、と仲間たちに知らせる秘密の暗号を残した。ハギンズ夫人は彼らをやさしく迎えて、食事と風呂を与え、服を洗って乾かしたし、新しい服を用意したりもした。ジェレミーの兄のマイケルはその頃から絵を描くのが好きで、放浪者たちの絵を描くこともあった。

Tramps and gypsies knew Mrs. Huggins as a friend. Tramps left their secret signs to tell colleagues that The Grange was a 'friendly' home. Mrs. Huggins would welcome them, feed them, let them bath and wash and dry their clothes, or provide new clothes. Jeremy's brother Michael, even then an artist, would paint them.


前回の引用部分と同じく、お母様が放浪者とジプシー(ロマ)に親切だったことがわかりますが、興味深いのは彼らがお互いの間で、ハギンズ家に行けば親切にしてもらえるということを暗号で知らせたというところです。グラナダ版の「ノーウッドの建築業者」では、原作にはない形で放浪者が重要な役回りを演じますが、ホームズがそのことに気づくきっかけの一つが、石と木の枝で示された彼らの暗号でした。この放浪者同士の合図、というのがジェレミーの発案という可能性もあるのかしら、と思ったのですが、プロデューサーの書いた A Study in Celluloidにも、David Stuart Daviesの Bending the Willowにもそのような記述はありませんでした。でも可能性は捨てきれませんし、そうでないとしても、暗号をみつけるシーンがあるのをジェレミーは面白く思ったのではないかと思います。

そしてやはり、お兄様が放浪者の絵を描いたことがここにも書かれていました。

RM
このところ土曜日にここの記事を書くことが多いのですが、明日は外出するので、金曜日の夜に書きます。

前回の記事で、「面白いと思ったのは、絵を描く時のことを例えにあげていることです。ジェレミーのお兄様の一人は画家ですものね」と書きました。そこからの連想で、絵に関する以前の記事にふれたあと、1985年のインタビューから引用します。

まずはジェレミーのお兄様のMichael(マイケル)のこと、その絵がどんなだったかについては以前こちらに書きました。
ジェレミーの兄、Michael Hugginsの絵(1)

ジェレミーがお兄様の絵のモデルになったときのことをちょっとだけ話しているのがこちらです。
ジェレミーのギターと歌

それからジェレミーが学校で好きだった教科のお話。
Mr Binksのこと(2)、のはずが脱線していろいろ
このときは原文を書いていなかったので、あらためて引用しましょう。

"LUCKY PENNY TALKS TO JEREMY (D'ARTAGNAN) BRETT"
by Lucky Penny
from Diana - The Paper for Girls Who Love Good Stories
25 March 1967, #214
http://www.brettish.com/JB_Meets_Diana.htm

ウォリクシャーで生まれたのですね。学校ではどんな教科が好きでしたか。

歴史と美術です。風景画と魚を描くのが好きでした。魚はよくよくみると、とても美しい色をしているんですよ。

You were born in Warwickshire. What were some of your favourite subjects at school?

History and art. I loved painting landscapes and fish--they've marvelous colouring when you get to know them.

というわけで、ジェレミーも美術が得意だったのですね。


さてそれではもう一つ、「絵」ということで思い出したジェレミーの言葉、お母様のことを話している箇所の中です。1985年4月のインタビューで、掲載は雑誌の1985年秋号です。

"Interview With Jeremy Brett"
by Rosemary Herbert
The Armchair Detective, Vol.18, No.4, Fall 1985

母は単なる「僕の母」というだけではなかったのです。名前はElizabeth(エリザベス)というのですが、母は誰にでもこころの扉を開いて、そのこころの奥の窓を開け放つひとでした。そんなふうな表現しかできません。誰もが母のところに来ました。母はとてもあたたかい、ひかりのようなひとでした。

父が家にもどると、母をたずねて友人が来ているだけではなく、ジプシー(ロマ)の野営地のひとたち全部や放浪者たちが家にいる状態ということもよくありました。母が彼らを招きいれていたのです。兄のマイケルは画家になりましたが、兄は当時、放浪者の一人を絵に描いたことがありました。父の椅子にすわっている姿を描いたのです。おかげで父はノミに悩まされました。父はずいぶん我慢させられましたね!

She wasn't just "my mother"; her name was Elizabeth, and she had open doors and open windows in her soul—that's the only way I can put it. Everybody came to my mother. She was like a light of great warmth.

My father would come back and find not just friends but whole gypsy encampments or tramps that my mother had taken in. In fact, my painter brother Michael painted one of these tramps [posing in] my father's chair, and my father got fleas from him. He had a lot to put up with!


お母様のことを読むと、ジェレミーはお母様ゆずりのあたたかさだなあといつも思います。放浪者を絵に描くお兄様もまた、面白いですね。

それではジェレミーはお父様からは何もうけつがなかったかというと、もちろんそんなふうには思わなくて、ひとから慕われる天性のリーダーというところはお父様ゆずりだと思います。プロデューサーのMichael Coxがジェレミーのことを、"he was a natural company leader"(天性のリーダーの資質を持っている)と言っていました(「あたたかさと賢さ;The Ritual (1995) より」。

あ、でもお父様は家では我慢していたんですね。家でのリーダーはお母様ですね!お父様のこと、今までも何回かふれましたが、次の次くらいに(多分)また書きます。

というわけで、最後はちょっと脱線気味ですが、絵の話題でかろうじてまとまったでしょうか。

RM

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Author: RM
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